66 生老病呆死⑧旧友への長い手紙 その4

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  66

66 生老病呆死⑧旧友への長い手紙 その4

木崎さと子さんの文章は前回で終わりです。
キリスト教用語で規定されると、ボクもなんだかなじめないし、反発さえ感じるところがあります。ニーチエを筆頭に、神もイエス・キリストも捏造だ、作り話だ、フィクションだ、と言い切る人たちだって、ずいぶんいるのですから。

でも、『実母が現れたら…』という心の動きが、やがて確信に変わり、さらに現実化していくエピソードはボクは実感的にもよくわかります。脳科学者の茂木健一郎さんがいっているように、ボクたちの認識はしょせん脳内現象です。

生き物は、人も犬も猫もカエルも蚊も、みんなそれぞれの感覚と脳で把握したそれぞれの異なる世界を生きているといいますね。植物もまた別の世界を生きているそうです。人間同士だって、ボクの生い立ちや経験や感覚や脳の働きが同一の人はいない、だから、ボクの抱いている宇宙や世界や認識やさまざまな思いは、他人には分からないのでしょう。

生命のシステムによって感じる世界は千差万別だとすれば、客観的な唯一の世界像というのはじつは存在しません。仏教の唯識という思想では、世界は具体的世界と抽象的世界があるとし、具体的世界に住むわれわれはみんな「自分ひとりの宇宙」の中に閉じ込められているのだといいます。

1人1宇宙、という考え方です。

この世界にはすべてに通用する客観的実在は存在しないという事実。それなら、ここはボクらもあの天才パスカルのように、「賭ける」、のがいちばんだと思います。

あんなに頭のよい科学者・思想家・宗教家パスカルでさえ、最後は乱暴にも、神はいるかいないか、それは賭けだ、とサイコロを振った。やくざっぽくて、なんだか愉快になりませんか。自分がそう認識すれば、自分を取り巻くすべての現実――宇宙さえも、そのようになるのです。
1人につき1つの宇宙。それでいいのでしょう。

キリスト教作家として著名な遠藤周作がよく引用するのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノスの、「信仰というのは、99%の疑いと1%の希望だ」という言葉です。

この言葉を知ったとき、ボクは目からウロコでした。それまで、信仰とは少なくともご本人にとっては完全無欠な確固とした城壁だとボクは思い込んでいました。

でも、そうではなくて、ご本人たちもなんと99%疑っていたのですね。信仰という言葉の背後にボクはそれまで、ある種、陰鬱な、面白みのない、笑いの乏しい、ひきつった、問答無用みたいなものをイメージしていました。オウム真理教の影をみていたのでしょうか。

信仰には、人間的で、爽やかで、開放的な側面もあるということがよくわかりました。

話が横道にそれたけれど、そしてボクはいまも信仰にはすんなり入れないけれど、でも、「希望の方へ信仰し、それに賭け、感覚と脳の諸器官が作動し、脳内現象によって、やがて現実化していく」とするのなら、なんてハッピーな考え方だろうとうらやましく思う気持があります。その考え方に準じて、その人生も現実化していくに違いありません。

仏教もキリスト教も、そういう希望という、別の言い方をすれば、あいまいな、ぼんやりした心象風景にすべてをかけようとしているのかな、と私は考えることがあります。

ボクは貴兄と一緒だった会社の後半生で、公私、硬軟(むろん、お察しのとおり、女難も!?)いろいろ取り合わせて、さんざん災難が降りかかり、今回の貴兄からみると、ささいすぎるようなことですが、一応、まじめに悩み、苦しみ、いろいろ考えました。

ちょっと柄にもないようなことを書いてごめんなさい。
でも、決して宗教をすすめているのではありません。私はいまだにキリスト教も、仏教も、信仰するにいたっていません。でも、生きるのにつらいとき、哲学の延長線上の思考方法として、宗教の発想は私には有効でした。

カントは宇宙には人間の論理的思考で理解分析できる分野とそうでない分野があるとし、人間ではわかり得ない分野が膨大にあることを認めました。

人はなぜ生まれ、どこへいくのか。これは哲学のもっとも初歩の疑問であり、永遠の課題ですが、これもまただれにも解けない問題です。生死の問題は永遠に解けないでしょう。そうであれば、パスカルの『賭け』が、いちばん合理的で、有効で、かつ気楽な方法かもしれません。それがすなわち、「希望」であり、「復活」のイメージでしょうか。
(次回につづく)