65 生老病呆死⑦旧友への長い手紙 その3

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  65

65 生老病呆死⑦旧友への長い手紙 その3

高史明は仏教徒ですが、同じようなことを書いているキリスト教作家の文章をみつけました。

木崎さと子、という地味で寡作な芥川賞作家ですが、宗教的、哲学的なすぐれた文章を発表しています。

彼女は4つのとき、実母と死別し、父は二度目の妻を迎えるのですが、小学生になったある日、実母の寺参りに父と祖母と自分の、水入らずの三人でいくのです。その道すがら、もしここに実母が現れたら、とぼんやり想像するのです。その日の思い出を後年、老いた自分が振り返り、いや、あれは想像したのでなく、あのとき、母はほんとうにいたのでないか、とおもう。現実と幻想がいっしょになる。

無限永遠の宇宙の歩みの中で、人間のちっぽけな生涯の時刻表など、親子の生死の時差、誤差などとるにたらない。そして、そういう「希望」する心こそがほんとうの奇跡につながる…、ということをいっているのだとおもいますが、とにかく、私には要約する能力がないので、原文のさわりの箇所をそのまま書きます。貴兄が読み解いてください。

エスは、ひと、として私の生のさなかに臨在してくださっている。と同時に、イエスは、私にとって世界認識の仕方そのもの、である。時間と場所を限定して肉体を持って地上に生き、死に、そして復活してここに在る、普遍であると同時に個別である、客体であると同時に主体となって私の内に生きる、そういう在り方がある、という…。

時間を含めて四次元の一点に生きる私が、その座標に置かれたまま、そこを超えて垣間見る、神秘、である。
でも、それを言葉にすることは私にはできない。とても卑近な例を通して「復活」について想うことを書くしかない。

小学生のころ、父と祖母に連れられて日ごろなじみのないお寺にいった。町はずれのお寺に向かう途中、私はふと,この道に亡母が現れたら、とおもった。ただ単純に、そういうことが起きてもいいのでないか、とおもったのだ。母が向こうからやってきたら、父も祖母も、ああ、とか、おお、とかいい、母もにっこりして私たち四人は連れたって歩き出すだろう。それまでどうだった、こうだった、などとも言わず、ごく自然に母と一緒の生活にそのまま移行するだろう。

なんということもない場面なのに、何十年も経った今、私は道の先に立つ母の姿をありありと思い出す。その場にいた父や祖母の姿よりも、思い浮かべただけの母の姿のほうを、現実に見たかのように思い出すのだ。つまり、現在の時点に立つと、母は「道に現れた」のである。そういうことが起きてもいいではないか、と小学生の私が思った、「そういうこと」が起きたのだ。いや、起きていた,私が気がつかないうちに、というべきか…。

もちろん、過去に起きたことと、過去のその時点で思い浮かべたことを、同じレベルで扱うことはできない。時間軸に沿って記述される出来事という意味でなら、母は現れなかった。しかし、現在に立ってあの日のことを思い出すと、母はそこに現れている。

私が立つこの一瞬は、時間軸では測れない。肉体的存在としての私は客体として、外側から時間軸で測ることはできるが、厳密にこの一瞬、というなら、私は客体でも主体でもなく、ただそこに世界があるだけだ。その世界のなかに、道があり、道の先に母が立っている。

一直線の時間軸に縛られていては、復活ということはありえないだろう。地球の公転と自転が時間の単位を作り、時間軸によって物質の変化を測ることができる。主体としての私は自分の肉体が時間とともに変化していくのを日々感受しているが、時間の先に待っている肉体の消滅を予想するときには、自分を客体化している。主体である私の消滅を予想することは原理的にできないからだ。つねにこの一瞬に在れば、私に時間というものはないはずだ。略。
時間軸をはずせば、当人の努力とは無関係に,奇蹟は起きると私は思う。

私は継母と共有した苦痛を通じて、あるいは2人の母に引き裂かれる苦痛を通じて、キリスト教に近づいた。それでも2人の母はなかなか1人にならなかった。それが可能になるには、私なりに小さな死と再生を何度か通らねばならなかった。略。
私の復活への想いは、2人の母が仲良く1つの道に立って、私に笑いかけてくれる、という、子供じみて単純なものだ。略。

カトリック典礼に「復活の希望を持って眠りについた私たちの兄弟姉妹すべての死者を心に留め、あなたの光の中に受け入れてください」という唱文がある。

復活とは希望なのだ。いつ、どういうかたちで蘇る、などと時間軸や物質の質量で予測するのでなく、「希望」という、人間に与えられた最も美しい感情で死者を荘厳し、自分の人生を荘厳する。その希望を保証するのが,信仰だろう。希望と信仰は神の光りのなかを循環している。その光りに、自分を含むすべての死者をゆだねる…> (次回につづく)