64 生老病呆死⑥旧友への長い手紙 その2

  ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  64

64 生老病呆死⑥旧友への長い手紙 その2

在日朝鮮人2世の、高史明という人をご存知とおもいます。以前、ボクはこの人と一週間べったり取材し、その後も付き合いをしてもらっています。ボクがこの人に着目したのは、いくつかのわけがあります。

ややこしいのですが、一応、簡単に記しますと、この人の12歳の1人息子が自殺したこと。報道によると、教室で少年に対する民族差別の雰囲気があったこと、しかし、少年はそれを親にもだれにも言わなかったこと。少年は早熟な秀才で、たくさんの詩や文章、絵を残したが、哲学的な表現が多く、差別をストレートに書いたものは何ひとつなかったこと。

(少年の書き残した詩は、のちに両親の編集で「ぼくは12歳」(筑摩書房)という本にまとめられ、大きな反響を呼びました)

彼の母親は日本の上流階級の育ちで、お茶の水女子大の学生のとき、共産党の運動を通じて、高等小学校中退で肉体労働者だった高史明と知り合い、親の勘当をうけながらも結婚した。

高史明はその後共産党を除名になり、教員の妻に生計を支えてもらい、文字をひとつずつ覚えながら小説を書き始め、やっと新人賞を受賞、前途洋々のときに、息子に死なれたという経緯をたどります。

子どもの自殺について、当時の新聞を見ると、朝鮮総連などは民族差別の問題だと政治運動へ転化をもくろむのですが、高史明はそれには乗らず、「そんなに簡単なものでない。生涯をかけて息子の心の闇、死の意味に迫りたい」と仏教の研究に取り組み、やがて日本で指折りの親鸞研究家になっていくのです。

また、夫人は「私の抱きしめ方がたりなかった」といっています。ボクはこの両親のコメントにいたく感動したのです。

民族差別による子どもの自殺、という腹立たしい、怨念の塊になりそうな、とてもつらい状況をその後、2人はどのように克服していったのか、そこを聞きただそうとしつこくまつわりついたのです。仏教のことも多少は勉強せねばならず、ほんとうに胃が痛くなりました。

この取材を通じて、ふたつ思い出すことがあります。

1つは、息子の死後、高史明さんは自宅の小さな庭でぼんやり蟻をみていたそうです。
自宅の裏は息子が通っていた小学校のグラウンドで、子どもたちの歓声が響いてきます。つい、この間まで息子もああやって遊んでいたんだな、とおもいながらも、蟻の様子を見ていると、自分らもこの蟻と同じ存在だと気付き、民族差別もなにもない、みんな大自然の大きな営みの中の1かけらにすぎない。混沌とした大宇宙の中のちっぽけな自分、息子、運命――そんな気持ちになっていったといいます。

もう1つ思い出すのは、取材が終わり、ご夫婦と一緒に信州へ遊びにいったとき、山道を歩きながら、「息子さんの死も、時間がたつとはるかなものとして、ぼんやり遠ざかっていくのですか」と何気なく聞いたのです。

万事、温厚で穏やかな口調の高史明さんが、そのときはきっとなった表情になり、「それは逆です。だんだん近付いてくるのですよ。いまはもう、私たちのすぐそばにいるんです。同行3人の旅路をしています。私も妻も彼に見守られている。いつも慙愧の思いです。」

慙愧の正確な意味を確かめようと仏教辞典をみると、「自らがおかした悪行を恥じて厭い恐れること」とあります。この世にいる両親はやっぱり悪行をおかすけれど、12歳の少年はもうあの世にいるから、悪行をおかさない、先輩格として両親にアドバイスしたりするのかな、とボクはヘンなことを思案したものです。

それからほどなく、高史明さんが出した「ことばの知恵を超えて」の本のサブタイトルは<同行3人>となっていました。死者は離れていくのでなく、歳月がたつにつれて、ますます新鮮に、こちらに近付いてくるというのです。それが一致するとき、3人とも浄土にいる、ということでしょうか。
この言葉を聴いた瞬間は、「カッコいいな」、と思いました。その次に、そんな非合理的なことを思うはずがないじゃないか、と否定したくなりました。

若いころ、僧侶の暮らしに興味を持ち、京都の天竜寺という臨済宗の大きなお寺に1年ほど間借りしたことがあります。世間的に有名な僧侶の話も聴く機会に恵まれましたが、ピンときませんでした。むろん、こちらが未熟だったからですが、僧侶の言動が、わざとらしく、故意に人を食おうとするような、もってまわった感じで、鼻につきました。高史明さんの「同行三人」も、その類ではないかと。

でも、なんとなくこの言葉が気になり、いつも心の隅に刻んでいました。そして10年ほどたったある日、ボクは実体験として、何十年も前に死んだ、大好きだった父が、笑いながら近付いてくるのを確実に見ました。以来、父はずっとボクの側に居て、相談相手になってくれています。

(これは次回に紹介するキリスト教徒の芥川賞作家、木崎さと子さんの文章に共通します)

誤解されると困るのでこの話はまた別の機会に詳しく説明します。

なお、高史明さんの取材に関連して、息子さんの担任の先生にも会いました。初老の人でしたが、責任を感じて教師を辞め、僧侶になり、息子さんの命日には墓地でお経を唱えているそうです。彼の部屋の壁には、江戸時代の僧、白隠の書が掲げてありました。
「この世は地獄であるが、じつは地獄の中にこそ極楽はある。」という意味だ、と彼は解説してくれました。

地獄のなかに極楽をみつけることこそ、これからの私の年代の者にとって、最大最高の勉強であり、生きる目的なのかな、とそのとき殊勝にもボクは思いました。モンテニューの、「よく生きよく死ぬ」、ことが人のいちばんの課題、というのにどこか似ていますね。
(次回につづく)