60 神を望見し永遠へ歩むノラたち 

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  60

60 神を望見し永遠へ歩むノラたち  

 厳しい条件の中でノラは次々死んでいく。
しかし、ノラの数は減らないと保護活動の人たちはいう。
飼い主が捨てるからである。不妊手術をしないからである。ノラ猫の出没する場所、例えば都市公園などは捨てる人と保護する人のシーソーゲームだ。

1番残酷なのは自立できるはずもない山などに捨てるケース。猫は本来人間とともに生存してきたのだ。
せめて罪一等を減じられたいと思うのだろうか、ノラをよく見かける街中や公園に捨てる。捨て猫が生き延びる可能性をもくろんでいるのだろうが、住民や保護活動の人たちにとばっちりがいく。

ブランド犬だって同じ運命をたどる。子どもにせがまれてポンと買い(飼い)、子どもが飽いてくるとポンと捨てる。引越しシーズンには大型犬に手を焼いた飼い主が高速道路で車から放り出すケースが多いと聞く。
15歳のとき二科会に最年少で入選し、いまも動物保護をテーマに制作に打ち込む画家小野絵里さんは実際にそんな場面に遭遇し、犬を救出するために大騒ぎした。

 ボクが担当している地球上の針の穴の一角でも事情は同じだ。脱兎やチビに代わって早々とチビ友や子猫が待ち構えている。不妊手術をした脱兎までがボクたちの責任範囲で、あとはもう餌やりをやめようと妻と話し合っていた。しかし、この2匹もかわいい。足元にまつわりついてくる。見捨てるにはあまりに無邪気で無力だ。「キティといって子猫はかわいいものの代表格ね」と妻はいった。

 深みにはまりつつあるのが自分でもわかった。キティがやがて三毛や黄色や脱兎のように果てていくのも走馬灯を追うように見ることができた。走馬灯を繰り返すには、ボクはもう疲れた。ノラに関わって心を病んだ女性も知っている。

 その年が終わる2日前にキティたちと訣別した。
 正月もお屠蘇を飲みながら、キティたちを案じた。あのぎこちない足取りで、どこかで餌をみつけることができただろうか。1年前の元日の朝、三毛が前夜の餌を食っているかどうかチェックに行ったことなども思い出された。

 動物の死はいつも寡黙であっけない。桜の散りぎわに似て潔い。それがちょっとかなしい。ノラたちだって言い分はあろう。気がついたら地上に放り出されていて、そこは人間中心の管理社会で、命をつなぐ食べ物もなく、邪魔者扱いされる。

 ボクなら「あんたは何のためにボクを生まれさせたのかね。責任をとってくれよ」と神様に文句の1つも言いたいところだ。ボクの知り合ったノラたちにはまるでそんな様子はなかった。不当な受難を日常性のなかでやりくりし、時が満ちたら、だれにも知られず過去を歩いている。

 リルケにこんな詩がある。

 死を見ているのは私たちだけだ
 自由な動物はその没落をいつも背後にして
 前には神を望み見ている
 そして彼らが歩むときは 永遠の中へ歩んでいくのだ
 泉のゆくように


 人間のように死を知らない動物たちには死を超えた深いはるかな世界がみえているのだろうか。

 人間も動物もすべての生物は同じ素材から生まれ、やがて地球丸ごとが宇宙のガスと塵になり、新しい星に生まれ変わっていく。最新の宇宙論量子論がそう説くときボクには、にわかに仏教の「倶会一処」の教えが新鮮によみがえってくる。ノラたちよ、お前とボクはもともと同じ仲間で、やがてまた一緒になるのだよ。

そして、つらい浮世を今夜も生きながらえている世界中のノラたちにナチスの捕虜収容所から生き残った哲学者レヴィナスの短い言葉を用意しよう。

 「そのとき死なずに生きているからには何ものかを享受して生き ている。空気を、廃墟を、ベッドを、人工呼吸器を享受している。幸せな状態とはいえなくても、死なずに生きているかぎりは、
やはり幸せに生きているのだ」