59 体制側に媚びたがる成り上がり者・元ノラ猫

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  59

59 体制側に媚びたがる成り上がり者・元ノラ猫

大阪府知事選は1方が、1人勝ちだったが、ボクの周辺の若い人たちは「投票所にいったが、どっちもどっちで、まあ、しかたなく消去法で…」という人が多い。どっちもどっちというのはボクも同じだ。もっともボクは別の方のどっちもどっち、に入れたのだが、元気のない大阪をとにかく変えてくれ、という悲鳴が、よくテレビに出る、しゃべくりのうまい、景気のよさそうなあんちゃんに、となったのだろう。そして落ち目の大阪としては、せめて年齢の若さだけでも「全国1」をウリにしたかったのかもしれない。

むかしの本にはマスコミの3大機能の1つは登場人物を何か意味ありげな、内容のありそうな有名人に仕立てる、と書かれている。また、別のむかしの本には大衆社会とは、自分の携わっている分野以外のことは知らない、関心がない。「みんなが素人」の時代、と説かれている。世の中がいよいよ忙しくなり、細分化、専門化してくるとこの傾向はますます深まる。他人のやっていることなどどうでもいい、というわけだ。まして、セイジなどというものはおせっかいやきにやらせておけ、という気持ちはボクにもなくはない。知事などになると顔がさして街で女の子に声もかけられんじゃないか。そういえば、横山ノックという勇気のある人もいたけど。

報道によると新知事は岩国基地への移転問題で「住民投票は間接代表制をとる日本の法制度上、問題があり反対」と自民党の宣伝をしている。

教えてあげよう。法律は常に時代より遅れているのだよ。当たり前だ、法律をつくるまでに時間がかかるのだから。人々の動きや暮らし、考えは法律より常に先を歩いている。法律は「人々の現実」に合わせて常に整備を怠らず調整され続けねばならない性質のものである。ほら、年寄りの中には頭が固く、融通がきかず、自分の生きた過去をがむしゃらに押し付ける手合いがいるだろ。なんでも法律を盾に、法律を権威づけて、地方の人々に、中央の意思を押し付けるのは普段のキミのスタイルに似合わないのじゃないか。全国最年少で舞い上がっているのかね。スターリンプーチンの側近みたいなやつだな、あんたはんは。自分の地域のことは自分たちで決めるのだ。落ち目の大阪くんだりからものをぬかすな。

思い出した人がいる。上智大学渡部昇一という名誉教授さん。新知事と共通点がある。ともに貧しい家庭に育ち(ご本人がそれぞれ公表している)、努力し、成り上がり者におなりになった。ご同慶の至りである。ただし、この手の人にともすれば見られる現象は、成り上がる前の階級にことさら距離を置き、成り上がった階級に一層馴れ親しもうとする傾向が強いことである。ときの体制の中で成り上がったのだから、その体制の護持に努めようとするのは当然としても、成り上がり者の習性として、さらなる成り上がりを目論む。体制へあの手この手で媚びまくり、体制への深化を目指そうとする。

何十年前になるのだろうか、教授のデビュー作の「知的生活の研究」?(ごめんなさい、題名がうろ覚えです)という新書版はボクも愛読した。肝心の中身は忘れたが、教室で先生の問いに、はいはい、と手をあげ、運動場では全力で走り、貧しくても運動も勉強も健気にがんばっているズック靴の雪国の赤い頬の少年が著者像として残っている。本の中身より著者の少年時代の苦学ぶりが印象的で、ボクは微笑んでエールを送ったのだった。

だが、ボクのイメージの中で渡部さんはその後、転落の一途をたどる。極め付きは昔話になるが、朝日ジャーナルでの立花隆との論争で粉々にされた。いや、論争に敗れたのをいっているのでない。なぜこうも時の体制側にくっつこうとするのかという姿勢である。論争の結論は普通の知能の読者なら、むろん本人だって、自明のはずなのに、なぜか体制側におもねるがごとく、血反吐を吐くように屁理屈反論を吐いて、そのあげく満身傷だらけの撤退となった。

それが懲りもせずというか、2年前の「二極化社会も悪くない」という対談で例えば次のようなことを言っている。

「いま日本で中流が崩壊して社会が二極化することを不安視する声が広がっている。二極化を批判するこのような勢力はかつての左翼に多い。左翼は社会のあら探しをして、アメリカのブッシュ政権に文句をつけたり、金持ちと貧乏人が増えて中流が減っている、二極化しているなどと不安を煽っている」(2006年3月号「voice」より)

ボクの伯父は生れ落ちたときから死ぬまで、大金持ちを貫き、左翼ぎらい、ビンボー人ぎらいだった。ボクは伯父が大嫌いだったが、1つだけうなずけるのは、成り上がり者が挨拶にきて、伯父に媚を売ろうとし、ことさらビンボー人を攻撃し、体制側につこうとするのを毛嫌いした。帰ったあとで、「だからビンボー人は卑しい」と吐いて捨てた。

ボクはそのとき反論の材料を持ち合わせなかった。けれど、のちに筆坂秀世さんが「日本共産党」(新潮新書)のなかで「私はなぜわが家がこんなに貧しいのか。社会の仕組みが間違っているからだなどと乏しい知識で必死に(入党に反対する家族に)説得した」と書いているのを知った。ビンボー人だって、こんなに仲間を思っている美しい言葉があるんだと伯父に投げつけてやりたかった。

もっとも著者はその後、セクハラでナンバー4の地位を追われちゃったらしい。世の中うまくいかないね。

さて、あんちゃんよ、法律ロボットになっちゃだめだよ。法律と人々の現実の調整をするのがセイジだということを忘れるんじゃないよ。世の中はココロと論理の組み合わせで成立している。

もう1つ、成り上がったからといって、元の仲間、ビンボーな人たちの愛と悲しみと生活ぶりを忘れるなよ。ボクが飼っている元ノラ猫のように、飼い主にベタベタ不必要に媚を売るんじゃないよ。短い人生だ、死ぬとき後悔するよ。