55 ノラ猫1匹に警官が4人

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  55

  55 ノラ猫1匹に警官が4人
 
 最晩年の三毛を力づけてくれた子猫「チビ黒」と再会し、再び別れた顛末記――。

 三毛がこなくなってからもボクたちは三毛を探し歩いた。ある夜、以前三毛に餌をやっていて苦情をいわれ、ずっと敬遠していた農家付近にも足を伸ばした。農家は畑に隣接している。その塀の下に黒い塊がぼんやり見えた。塊はゆっくり動き、ボクたちの足元にくると急に大声で鳴きだした。なんとチビ黒だった。ボクらのことを覚えていたのか。三毛用に持っていた餌を畑の側溝にやった。チビ黒は三毛とは対照的におおげさに喜んだ。

三毛とは出会えなかったが、チビ黒はいつもいた。いつか小雨の夜も塀の下に放置された工事用の青いビニール敷物の上にちょこんと座っていた。甲高い鳴き声、落ち着きがない、どんな人にもぺこぺこついていく、尻尾を上にあげ、お尻の穴がいつも丸見え、歩き方がチンピラ風で品がない、などと妻はいったが、ボクはいじらしかった。広い世界にただ1匹放り出された子猫にほかにどんな生き延び方があるというのだろう。
怖いおばさんのいる農家だったが、反対側から接近すればみつからないだろうと甘く考えていた。

その夜も近付くと塀の下からチビ黒が走ってきた。そのとき、チビ黒の向こう側に犬を連れた女性がこちらをみているのに気付いた。畑の側溝に餌をおいた、飛び込むチビ黒。女性はいつの間にか犬を放していた。チビ黒の何倍もの大きな黒犬がチビ黒に迫った。逃げるチビ黒、追う黒犬。ボクはとっさに犬を蹴飛ばした。おおらかな犬のようで、声も出さず、ひるんで立ち止まった。そのすきにチビ黒は消えてしまった。犬はおとなしかったが、女性は激しかった。突然、そばにきて「犬を蹴るな!人の畑でノラ猫に餌をやるな!」と叫び続け、ボクを小突きはじめた。30代後半の肥った女性だ。妻は去った。

犬をわざと放したらしい。「まあ、落ち着いて」とボクは年長者らしく振舞ったが、今度は例の農家から40半ばの女性が駆けつけてきた。妹とふた言三言話すと、「妹に何をする!」と、妹以上の激しさで「この人はうちの犬を蹴ったんですよ。ノラ猫に餌をやっているんですよ。人の畑にはいっているんですよ」と、両手をメガホンの形にして近所に甲高く絶叫した。あとでこの一家が札付きのトラブルメーカーとわかったが、このときは知らなかった。

姉はボクの耳元にも叫びをぶつけた。「あっちを向いてくれませんか」とボク。「叫ばれて困るのか!」とよけい居丈高になる。ボクはここぞとばかり、「違う、あんたの口臭がたまらんのや」と言い返した。我ながらヒットで、姉妹とも一瞬沈黙した。作り話でなく、実際ひどかった。態勢を立て直すように姉は「警察に知り合いがいる。連絡するぞ」と脅す。願ってもないこと。第三者がいないとちょっと収拾がつかない。「どうぞ、早く電話したら」とむしろ催促した。

姉がどんな通報をしたのか、ほどなく4人の警官がパトカーとオートバイに分乗してやってきた。若い警官がやにわにボクの腕を掴んでパトカーに押し込もうとする。「無礼なことをすると許さんぞ」とボクは手を払いのけ、声を荒げた。年配の警官が寄ってきて、「パトカーで話を」と低い物腰でいった。パトカーのなかでボクは「ノラ猫1匹に警官が4人、きょうは暇なんですね」とつい嫌味をいった。
 年配警官もむっとしたようだ。そのとき、兵庫県で動物保護の活動をしている女性が、警察は理解がある、市の行政のほうが悪質だ、といったのを思い出し、あとは黙った。

姉妹はボクが餌をやるのにわが家の畑に入ったと訴えたが、現場をみれば一目瞭然だ。警察はすぐにわかってくれた。当時、ストーカー殺人などが問題になっていた。「通報があると出動せねばならないのでトラブルのないように」という警察の立場はよくわかった。「まあ、この家から離れたところで…」と含みを持たせた警官の言葉にボクはうなずいた。

それにしてもチビ黒はこの日食事をとりそこなった。犬に襲われ、餌はもらえずでは気の毒すぎる。翌日、気になってボクは農家の裏手から近付いた。どこにひそんでいたのかふいにチビ黒が走ってきた。畑の奥にある橋のたもとへ誘導し餌を与えた。数日後にはチビ黒は畑を離れ、橋で待つようになった。ある夜、いつものように橋のたもとに行ったがチビ黒の姿がない。薄明かりの中で目をこらすと、橋の中央で動いているものがある。2匹の猫がつながっている。1匹はチビ黒だ。

妻はさっさと帰り始めた。妻の後を追いながら、昔の三角関係を思い出した。1人の女性を奪い合い、ボクが負けた。「そいつがいいんだな、じゃ、そうしろ。バイバイ」。ムキになって女性に投げつけた捨て台詞を、いまチビ黒に重ねようとしている自分に気付き、苦笑してしまった。そのときのように思い切りよくチビ黒をふっきれ、とささやく声がどこからか聞こえた。「ネコの赤ちゃんがゾロゾロ生まれたらどうするのよ」、という妻の言葉もだめ押しになった。