50 子猫しか飼わない主婦の哲学


    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 50 

50 子猫しか飼わない主婦の哲学

 なくて七癖、猫にもいろいろな飼い方があるようだ。
 以前、わが家の近所の社宅にいた主婦は、しょっちゅう、複数の子猫を飼っていた。ご主人や、まだ小さい2人の子どもたちも子猫をかわいがっている。ところで、子猫は大きくなるはずなのに、なぜかおとなの猫は見当たらない。妻とふしぎがっていたら、理由がわかった。

 子猫がおとなになった段階で主婦はどこかへ捨てにいくのだそうだ。そして入れ替わりに別の子猫がやってくる。
 隣家の人が主婦に聞いたところでは、子猫はかわいいし、無力である。だから飼ってあげる。しかし、ある程度成長すると、自立せねばならない。それは人間だって同じーーという哲学。近くへ捨てて戻ってきたこともあったので、二度と帰れないように慎重に車で遠方へ運ぶとも聞いた。

 社宅が取り壊されることになったとき、3匹の子猫がいた。主婦はとくにかわいがっていた1匹だけを引越し先に連れて行き、2匹が残された。近所の人がかわいそうがって、しばらくの間、餌を与えていた。やがてクレーン車がはいり、1匹は姿を消した。もう1匹はその後も隣家のイヌの餌を失敬にいって吠えられたり、夕映えのなか、瓦礫の山のうえにたたずんでいるのを目撃されたが、そのうちいなくなった。主婦の哲学は、子猫のまま世の中に放り出したことをどう説明するのだろうと、ときどき思案することがある。

 ボクは生まれつき生き物にやさしいほうだと思い込んでいたが、改めて記憶のつぼを探ってみると、そうでもないようだ。

 小学2年生のとき、お寺の境内で祝賀行事があった。全校児童が整列し、えらい人の話を聞いていた。ふとそばの松ノ木をみると、アマガエルがとまっている。てのひらにのせて、緑色の皮をぐるりとむいた。全身真っ赤な血の塊だ。それを前の女の子の背中の下着にそっともぐらせた。
 はじめ、女の子はそれが生き物とは気付かなかったようだ。式典の最中でもあり、もじもじと懸命にこらえている様子がおかしかった。そのうち、カエルが動き出したのだろうか。女の子の悲鳴と騒ぎ。式典の混乱。なぜかボクが叱られた記憶はないが、丸裸にされたアマガエルは木の葉に触れてもヒリヒリと痛かったであろう、あれからどんな運命をたどったのか。ボクの気まぐれを許してください。

 ボクの生き物虐待の最古の対象はハエだった。川遊びから帰って縁側で昼寝をしていたら、数匹のハエが顔面に波状的に飛来してくる。うるさい! ものぐさなボクは手を動かさずに捕獲する方法を思いついた。 口を半開きにして、ハエが唇にとまった瞬間、口を閉じ、下半身を挟み込むのだ。この方法そのものは成功したが、結局は手を動かさねばならなかった。ハエは必死に脱出を試み、ボクの口中に脚だけを残して逃げ去ったからである。

 レンゲ畑を歩くと、ミツバチが顔にぶつかるほど群がっている。戦後まもないころで、甘いものに飢えていた。ハチを草鞋で叩き落し、腹を断ち切ってミツを横取りした。あるとき、ミツをいちいち指で取り出すのが面倒で、ハチの腹に直接、口をつけたら、唇を刺されてはれあがったことがある。

 カエルに空気を入れると、おなかがふくれ、破裂するかどうかが校庭で話題になった。ボクが実験することになり、麦わらをカエルの肛門に差し込み、息を吐いた。ボクの息が切れ、緩んだとき、逆にカエルのほうからなにやら生ぬるい液体が口に入ってきて…。

 もう40歳を少し過ぎていた。飼い犬を散歩させていると、道端でボクと同年輩の冴えない男がしゃがんで犬の体を撫ぜている。犬も痩せて薄汚くボクの犬のような銘柄犬でないのは明らかだ。そのお粗末な犬がボクのタローのお尻を嗅ぎにくる。タローは毛並みはよくても幼犬で、ボクは神経をとがらせた。こんな犬に汚染されたくない。男の目前で何度も雑種を蹴飛ばそうとした。男は「そんなことしないでも…。野良犬ですよ」とぼそぼそ小声でいった。ボクはここぞとばかりに「野良犬をほっとくなんて物騒な。保健所へ連れてゆけばいいじゃないですか!」と叫んだ。怒気を含んでいたはずだ。男は諦めたような、ちょっと寂しそうな顔をしてうつむいた。


 その後、なにかあると、このときの光景が蘇り、自分を責めたくなる。温和で深いまなざしのあの男性にも、親しみやすかった雑種にもお詫びしたい。その反動からか、いま、得意そうに銘柄犬を散歩させている人間を見ると、つい軽蔑したくなる。