48 生老病呆死?定年後の夢(後)――穏やかにショーペンハウエル

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48 生老病呆死?定年後の夢(後)――穏やかにショーペンハウエル

 定年を境にぽつんと社会や世間との縁が切れてしまい、失意と孤独に陥る会社人間はどこにもいるでしょうが、私らの職場ではとくに多かったように見受けました。それまでが楽しく充実していただけに、いっそうその落差が大きいようにおもえたのかもしれませんが。
 
 同じ会社内でもむしろ、現役時代、目立たず、あまり期待もされなかった人のほうが定年後はたのしそうにやっています。時間があった分、忙しくなかった分、仕事にそれほど充実を感じなかった分、かれらは定年後のライフデザインを考えていたと私はおもいます。
 
 だれもがいうように、定年後もけっこう長そうです。入社したとき、先輩は「1日30分だけでいいから、目先の仕事と関係のない、遠いことを毎日考えるようにしてごらん。10年後、20年後、30年後、それはものすごい大きなパワーになるよ。1日30分考える人と考えない人の差は限りなく大きくなるよ」といってくれました。

 怠け者の私は実行できませんでしたが、ときどきは思い出して、励行しようと努力しました。結果的に先輩の言葉は正しかったと思い当たる節が私にもあります。現役のみなさんも、中年以降になったら、目先の仕事だけでなく、たまには現役から少し遠い距離を望んで「定年後・老後・死・人生全体」に思いをいたすようにされてはいかがでしょうか。
 
 私の場合は、定年後、自分の能力や努力と関係なく、たまたま運よく大学に職を得ることができました。ある日、上司から推挙されたわけです。いま私は古希を控えて、精神的には決して老化はしていません。知的好奇心や読書量、思索の深さなどはむしろ、現役時代よりまさっていると自負しています。しかし、肉体的にはぼつぼつ金属疲労がはじまっています。くわしい文句は忘れましたが、ひところ、外国の老人による「精神が若かれば、それは青春だ」みたいな詩が、日本の老財界人にもてはやされましたが、むりをして若ぶることはないとおもいます。肉体の衰えを気にしているからこそこんな歌に力をいれたがるのでしょう。

 年齢と共に体力が衰えるのは自然の摂理です。体力が衰えると必然的に気力が弱ってきます。気力が弱ると、考え方も消極的になってくるというのも当然の成り行きかもしれませんね。消極的という表現が前向きでないというなら、「穏やかになる」と言い換えてもいいとおもいます。老年になって万事穏やかになる、これはすばらしいことだ、とショーペンハウエルがいっています。
 
 「日々の生活に困らない程度の小金と健康があれば、人生で老年期ほど豊かで充実した季節はない。なぜなら、若いときのように身を焦がす出世欲、性欲、富や地位への渇望にもはや悩むこともなく、人生を静かに穏やかに味わいながら過ごすことができる。」
 
 なるほどとおもいます。これからの残り少ない人生の時間をこのような物差しで考えていきたいとおもいます。ただ、私がショーペンハウエルでない証拠に、私はやはり社会とのつながり、人間との関わりがほしい。それがないとどうも落ち着かないし、時間をもてあますのです。時間のむだとわかっていても、親しい馬鹿仲間とわいわいと花の下で酒盛りをするとき、「ああ、これが人生なのだ」、とおもい、人のためにちょっと努力し、小さな感謝やほめことばをもらうと、「ああ、よかった」、とうれしくなる。つい心が充実してしまうのです。
 結論から言うと、ショーペンハウエルをかみ締めつつ、自然体でむりをせず、生涯現役を続けられたらーー続けられるだけ続けていけたら、というのがさしあたっての私の目論見です。