45 明日からはお母さんがあなたの仏様になる(後)

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  45

45  明日からはお母さんがあなたの仏様になる(後)

平野恵子さんの気付きのきっかけとなった、廣瀬先生の<空過>という言葉を手元の岩波仏教辞典で調べたが載っていない。ただ、先生は追悼講演の記録「遺教」(法蔵館)の中でこんな主旨のことを書いている。

「そのころ、空過を超える、ということを軸にしてお話をしていた。人間はそれぞれに与えられた一生を生きていくのですけれども、その一生はただそのままで生きていくということになれば、流れる川の水のように空しく過ぎていくだけでないか。しかし、その人生が、まったく同じ人生でありましても、ある事柄に出遭うことができると、その人生の全体が空しく過ぎていくだけのものではなく、本当の充足ということを1日1日の生活の中で実感しながら生き尽くすことができる。恵子さんとの会話はちょうどそのころの出来事でなかったかなと思います」

また、高史明さんは追悼講演「悲しみを通して真実のいのちをいただく」(法蔵館)で、平野さんの「今日まであなたがお母さんの仏様であったように、明日からはお母さんがおなたの仏様になるからです」の個所を特筆し、親鸞の往相還相と関連付けている。「仏様のいのちは<往き>と<還り>が1つでございます。私どものいのちの根っこは、この仏様のいのちに支えられているのでございましょう。向こうから恵まれてあるものであります」

ちょっと難しい。仏教辞典から往相還相を勝手に要約すると、浄土教の2種の回向をいい、自分の功徳を自分以外のすべての存在に施し、みんな一緒に浄土へいこうと願を立てるのが往相。逆に浄土から現実世界に戻ってきてすべての存在を導き救うのが還相だ。往相還相は仏教の重要な教えの1つということで、今後おいおい勉強していくが、障害児の娘が今日まで母の仏様で、明日から交代して母が娘の仏様になるという表現に母子の生死を超えた救済と慰謝を感じ、心が熱くなる。

平野恵子さんの手記の続き。
「お母さんは死を通してのみあなた達の南無阿弥陀仏となることができるのですが、由紀乃ちゃん(注・障害をもつ娘)はすでに生まれたときからすべての人の南無阿弥陀仏として輝く人生を送っているのです。そのわけをお母さんはよくわかりませんが、一切のはからい(煩悩)を離れることにおいてのみ、いのちの故郷に帰ることができるのならば、あなたは生まれたときから、いのちの故郷(お浄土)に住むことができた仏様だったからなのかもしれませんね」

しかし、母は別の箇所に<やっぱりつらいよ>という詩を書いている。

お浄土は、いのち、のふるさと、

そこへ帰るには、

何もいらないのです。

荷物も切符も道しるべさえも、

着のみ、着のまま、

生まれたときと同じように、

裸のまんまの、私がかえるだけ。

うれしいね。ありがたいね。でも、

(3人の子どもたち)

やっぱりつらいよ。

ごめんね。ごめんね。


 また、別の個所で別の文章。

 「(略)昼間はどうしても先入観と比較の世界でしか、あなた達をみることの出来ない、愚かなお母さん。だから、せめて寝顔に向って詫びることぐらいしかできないのです。

 寝顔とは本当に美しいものです。与えられた生命そのままに、なんのはからいもなく安らぐ姿は、阿弥陀経の中で説かれている<青色青光、白色白光、赤色赤光>の世界そのままなのです。

バラがスミレになるのではなく、鯛がイワシになるのでもなく、(3人の子どもたちは)そのまんまで、それぞれが自分色に輝ける世界、そして、お母さんも、愚かなままで、許されて輝くことの出来る世界なのです」