42 唯識と脳内現象

   ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  42

         42 唯識と脳内現象

 40回の「障害児を持つことの喜び」にも、補足説明が必要でした。
「娘の学園に40歳近い男性がいます。知能年齢は7歳ぐらい。その目は絶望の影が宿っています。父親は有名な資産家ですが、面会に来たことは一度もありません。ある人が障害者の新しい研究のために父親に寄付を求めに行ったら、<わしは障害者のために1セントも出さぬ。わしの金は全部、正常な人のために使うのだ>と机を叩いたそうです。彼は来る日も来る日も自分のこと、自分に失われてしまったものを思いつめてきたのです。そして、わが子に見出すかもしれない喜びを、そのような子どもを持ったために得られた喜びをついに持てなかった…」という個所です。

 これに37回のパール・バックの言葉「自分を中心にものごとを考えている限り、人生は耐えられないものであったのです。そしてその中心をほんの少しでも自分自身から外すことができるようになったとき、悲しみはたとえ安易に耐えられないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのです」を並べて思案しました。

 同じ重い障害児を持ちながら、パール・バックは「自分中心」をずらすことで安堵に近付き、娘は安住の地と友だちを得たのに、かたや米国有数の富豪の方は、絶望の目をした息子と、その息子に1度も面会にいかず、「正常な人にしか寄付はしない」とひたすら当り散らしているのです。この違いはどこからくるのでしょうか。
仏教の唯識思想の解説書にはつぎのような文章が散見されます。

 ○「その手はだれの手ですか」と質問しますと、だれしもが「自分の手です」と答えます。そこで「手はたしかに目で見てその存在を確認することができますが、あなたがいま言った自分という言葉が指し示すものはどこにありますか」
相手はいうことができません。手や足、ないしは身体は存在します。けれど「自分」は言葉の響きとしてはあるけれど、物体として本来的に存在しません。
 ○例えば「ピラミッドはある」といいますが、あるのはそれを構成する「石」だけです。石を分析すると、砂粒→分子・原子→最後は素粒子だけになります。それなのに視覚と言葉で「ピラミッド」を実体と考えてしまいます。同じように「自分」は「身体」と「心」があるだけで、身体は最終的には無数の素粒子の集合体に還元されます。心も同様に刹那に生滅する変化してやまない諸行無常の過去の記憶が深層心理にプールされたーーー。

 つまり、「自分」も「心」も、固定された、実体ではないということでしょう。だから、富豪さんも自分中心の心に固定せずに、パール・バックのように座標をずらせばいいのに、とつなぎたいのですが、どうも難しい。我ながら説得力に欠けます。困っていたら、それを補ってあまりある文章をみつけました。唯識思想はいったん中断して、著名な脳科学者、茂木健一郎の文章を要約します。

   『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)より。
 私の喜び、悲しみ、言葉では言い表せないような深い思い、私の心に住まうこのようなものたちから、私の人生はできている。だが、これらはすべて、私の脳の中で起こっている「脳内現象」にすぎないのだ。私の外に広がっているいるように見える広大な世界、目の前の机、窓の外の緑の木、地球、銀河など宇宙的広がりもすべて私の脳の中で起こっているだけのことだ。私たち人間にかかわることのすべては,脳内現象にすぎない。そして私たちの心が宿る脳は、たんぱく質核酸などの物質が相互作用しあう、電気的、生化学的な機械である。

 脳を含めて人間は機械にすぎないのに私たちが心を持つということ。
私たちは「心」をもっていて、広い世界の中で、自分の心だけが特別な存在であると確信している。「私」「私の心」に対するこのようなこだわりが、人間が幸福になるための条件をとてもむつかしくしている。自分を取り巻く客観的な状況がみえてこないのである。こだわりから自由になると、案外幸福になるための条件、それを実現するためになすべきことが見えてくる。

 以下はボクの蛇足です。自分の心、といってもそれはごくごく限られた環境条件の中で生じた思念の無数の偏り、クセ、思い込み、傾向などの仮の集合体。それを生来の、本来の、不動の、天与の、自分だと思い込んでいる。でもその要素は諸行無常、常に変転極まりない。だから心はいつも動いている、変わっている。視線をずらせば、容易に別の自分と別の世界、別の価値が見えてくる…。いまの心にしがみつくな!   ああ、また難しくなってしまいましたね。