36 終わりのない悲しみを抱いて

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  36

36 終わりのない悲しみを抱いて

娘の障害は治療できない、どうあがいても避けられない事実――。
それを納得したとき、当然のことながら次にのしかかってきたのは「娘の将来」だった。自分の死後、だれが面倒をみてくれるのだろうか? 娘は3歳児の知能のまま荒波を生きていかねばならないのだ。この世は弱者のためにできていない。最大の難問だった。

まわりの人々は親切だった。けれどほんとうに助けられることはなかった。パール・バック自身が表面は滑らかに振舞っていたからでもあろう、人々は遠慮して心の奥にはいってこなかった。

1人でいるとき、パール・バックは全身を投げ出してひたすら泣いた。魂は運命に全力で反抗した。娘はときどき部屋にやってきて、母の泣く姿をじっとみつめたあと、うれしそうに笑うのだった。

彼女は世の中の人々を2種類に分けた。避けることのできない悲しみを知っている人と、知らない人、である。
例えば親の死は悲しい。しかし、逃れることのできる悲しみであり、人はだれもいつかは出会わねばならない自然の悲しみだ。和らげることのできる悲しみといってよい。決して治らない心身の損傷は逃れることのできない悲しみだ。ハンディをもったまま生涯を過ごさねばならない。亡くなる悲しみは和らぐが、生きている悲しみは生きている限り続く。

「とうとう私は顔を見たり声を聞くだけでその人が、終わりのない悲しみを抱きながら生きるということがどういう意味かを知っている人か否かがわかるようになりました。そのような人がとても多いこともわかりました」とパール・バックは書いている。そして、その人たちが悲しみを抱きながら生きる方法を悟ることができたのなら、自分にもできるはずではないか! こうして彼女の魂の転換が始まった。悲しみとの融和の道程がスタートした。

「これが私の人生なのだ。だれも助けてくれない。受け入れて生き抜くほかはない」
やがて、生きていく以上、悲しみの中にも楽しめることは大いに楽しむように努めるのは当然だと思い始める。
それまで中断していた楽しみーー読書、花、音楽に少しずつ喜びを取り戻していく。そしてふと彼女は気付くのだ。それまで自分の身辺に起こったことは生涯でこれ以上はないほどの重大事のはずだった。世界中を巻き込む一大事に思えた。が、じつはそれは自分を変えていただけで、自分以外の他のものーー世界や自然には何ひとつ影響を与えていなかったのだ、と。それらはなにも変わらず以前のままだった。

知能障害をもつ娘はいつも幸福そうだった。無心に遊ぶ姿をみながら、パール・バックは一心に悲しみながらも、一方でふしぎな慰めがあった。娘は生きていくことの厳しさを味わわなくてすむだろう。これからもずっと子どもらしい喜びと無責任さをもって生きていくことになるだろう。天国の天使のように人生を送るに違いないーー。娘がふつうに成長できない、いつまでも子どものままでいることをありがたいとおもうようになったのだった。自分が他の人たちとは違っていることをぼんやりとでも自覚している人こそかわいそうだ。
以前、そのような人たちに会ったことがある。
自分を卑下して「役立たずだから」とか「自分はどうせナッツなんだから」「わたしはふつうじゃないから結婚できない」などと話しているのを聞いた。
娘がそのような人たちのようにならなかったことを神に感謝したい。

そのうえで、パール・バックは親たちに次のようなメッセージを贈る。
「もし、自分の子どもが普通に発育することができないことがわかった後でも、子ども自身が自分の状態を自覚できないような場合には決して悲しむことはありません。人生の重荷はその子どもから取り除かれるからです。ただし、どうしたらその重荷に耐えられるかを学んでいかなければならないあなたに、その重荷はのしかかってきます。避けることの出来ない悲しみにどう耐えていくかを学ぶことは決して生易しいことではありません。私はいまになってやっと私の学んできた道をひとつひとつ振り返ってみることができるようになりました」