35 無慈悲な医師

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  35

35 無慈悲な医師

中国、そして米国全土の病院、専門医、心理学者を訪ね歩くパール・バック母子の長い悲しい旅路が始まった。離婚もした。『母よ嘆くなかれ』に夫はまったく登場しない。
ある冬の日、母子の悲しい旅はミネソタ州の病院でついに終わる。

この著名な病院では毎日たくさんの精密検査を受けた。これだけの研究と知識があれば、必ず真実がわかり、どうすればよいかもわかるに違いないと自信のようなものがわいてきた。最後の日、母子は小児科部長と会った。窓の外は暗闇がせまり、病院の大きな建物は静まりかえっていた。小さな娘は疲れきり、母に頭をもたせかけて、静かに泣き出した。母は娘を膝の上に乗せ、抱きしめながら医者の話を聞いた。

医者は各科から集まった娘の検査結果を片手にもち診断を下したーー身体はどこも健康である、音楽の才能がある、ある種のハンディにも耐える個性に恵まれている、ただ、知能は著しく遅れている、と。
その医者は背が高く、若く、優しさにあふれ、人を急がせたり、心配させたりしたくないというふうにゆったりとしていた。
「なぜ知能が遅れているのでしょうか?」これまであちこちで無数に繰り返してきた質問をここでも繰り返した。
「わたしにはわかりません。いつの間にか発育が止まってしまったのです」

医者は母子をせきたてようとはしなかった。パール・バックは娘を抱いて座り続けた。果てしない大きな心の痛みが母の筋肉や骨の髄までしみこんでいく。
「望みはないのでしょうか?」
親切なその医者は望みがない、などとはいえなかったに違いない。
とはいえ、確信があるわけでもない。だからといって、自信がないともいえなかったろう。
医者は最後に、「あきらめずに、いろいろやってみるつもりです」と目を閉ざした。

母子は部屋を出て再び広い、がらんとしたホールのほうへ歩いた。その日も終わり、次になにをすればよいかを考えねばならなかった。

そのとき、小柄でめがねをかけた目立たないドイツ人がきた。小児科部長の部屋へデータの束をもって来て、ものも言わずに出ていった医師だった。医師は自室に母子を手招きで誘った。彼は母親をにらみつけるようにして不正確な英語で早口に荒々しくいった。
「部長はお嬢さんが治るかもしれないといったのでしょうか」
「あのーーーだめだとはおっしゃいませんでした」
「奥さん、私の話すことをお聞きください」と命令口調で次のようにいった。

「お嬢さんは決して治りません。空頼みはおやめなさい。望みを捨て真実を受け入れるのが最善なのです。でなければ、あなたは生命をすり減らし、家族のお金を使い果たしてしまうでしょう。私はこれまでこのような子どもを何人も何人もみてきました。あなたがどうすればよいかがわかるためには、過酷なほうがよいのです」
娘が母の全生涯を通して重荷になること、その負担に耐える準備をすること、娘が幸福に暮らせるところを探し、娘を託し、母親は母親の生活をしてほしいーー、「私はあなたのために本当のことを申し上げているのです」
そのとき自分がどう答えたかも覚えていない、覚えているのは部屋を出て再び母子がホールを歩いて外に出たこと。娘はやっと広いところに出たのがうれしかったのか、跳んだり踊ったりしていた。そして、涙にゆがんだ母の顔を見て、大きな声を立てて笑ったことだけ…。

この医師をパール・バックは生涯忘れなかった。
自分よりも背の低い、青白い顔をした、妥協のなさをあらわす唇、そのときは無慈悲におもった。「いまになって私はあの医師がつらい気持で話してくださったことがわかります。私の傷を深く切開しましたが、手際は鮮やかで、速やかでした。私は一瞬のうちに避けることのできない真実に直接顔をあわせることになったのでした。お名前も存じ上げないあの医師に対する感謝の気持ちは決して消え去ることはないでしょう」

この最後の審判を受け入れ、パール・バックは娘の暮らしの場を探すことになる。娘が10歳のとき、最終的な住処をみつけて入れる。名作「大地」を発表するのはその翌年のことである。