34 ノーベル賞作家パール・バック

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         34 ノーベル賞作家パール・バック 

 ノーベル賞作家のパール・バックもまた障害児をもつ母親だった。『母よ嘆くなかれ』(法政大学出版局)には、1人娘が、肉体は成長しても知能は3歳止まり、と知った悲しみと懊悩と克服への道のりが綴られている。悲嘆の部位そのものをストレートにあらわすというのでなく、少し斜めから冷めた目で苦悩する自分を観察しているふうなのが、いっそう切実で作家らしい筆づかいだ。

 娘の障害を知ってからこの作品を発表するまでに30年が過ぎている。すでにノーベル賞受賞者でもあった彼女が娘の事実を赤裸々に公表するには大きな勇気がいったことであろう。踏み切った理由の1つは同じような境遇の親たちからたくさんの手紙がきたことだ。親たちの質問は2つに大別される。
1、わが子をどうしたらよいのか?
2、このような子どもをもった悲しみにどう耐えていけばよいのか?

 前の質問には答えられるが、後のほうは本当にむつかしい、と彼女はつぎのように書く。「逃れることの出来ない悲しみに耐えるということは、他人から教えられるようなものでない。そして耐え忍ぶのはただの始まりではない。なにより悲しみを受け入れなければならない。悲しみを十分に受け入れると、自然に新しい道が開けるということを知ってほしい」
 
 悲しみは錬金術に似ているとパール・バックはいう。
 
 悲しみが喜びをもたらすことはないが、知恵に変えられることはある。そして知恵は幸福をもたらすことができる。つまり、悲しみは喜びにはならないが、幸福にはなり得るという錬金術である。

 親たちの悲しみの最たるものは子どもの障害を「恥ずかしい秘密、隠しておくべき不幸」とおもってしまうことだ。近所の人は「おかしい」とうわさする、親や家族は隠そうとポーズする。その陰鬱な環境は障害児に感染し、自分では何のことかわからないままに暗い影がつきまとうようになる。

 悲しみを幸福につなぐ錬金術の1つは現実をあるがままに受け入れることだ。そのことを彼女は宣教師の両親とともに長く暮らした中国で経験した。

「(中国では)目の見えない人も、足の不自由な人も、耳が聞こえないために話せない人も、また身体の形が整っていない人も見たのですが、どの人もみんなと同じようにふつうに生活していたし、何のこだわりもなく、受け入れられていました。といっても、その人の欠点が無視されていたというのではありません。それがその人のあだ名になっていた」

 「びっこのチビ」と呼ばれる少年がいた。身体の欠点をストレートにあだ名にするのは西洋式の考え方では残酷だが、中国人は違う。欠点を事実と受け止め、それは少年の一部であってそれ以外ではない。不運を当たり前のこととして受容する。本人も他人も、あるがままの姿をそのまま認め、みんなと同じように扱われる。天から授かった以上、それは運命であり、本人の罪でも、家族の罪でもないと信じ、振舞う。

 一方、アメリカ人社会は、優しい心からにしろ、見て見ない振りをする。少年にとってどちらが安らかで、のびやかな毎日であろうか。
 
 また、中国では一方で不幸にあえば、他方で必ず天が償いをしてくれると信じられていた。少年の欠点は他方で長所を補償されるのだ。中国人はパール・バック母子にこだわりなく親切にしてくれた。だが、「どの人もこのように親切でないのを上海に行ったときにはじめてわかりました」と彼女は書く。
 上海で米本土から着いたばかりとみられるアメリカ人の若い娘2人と行き会う。高価な衣服をまとった2人はわが子をじっとみていたが、すれ違いざま、1人が「あの子はナッツよ」といった。パール・バックは「ナッツ」という言葉を知らなかったが、あとで米語のひどい蔑視語で「くるくるパー」を意味すると人づてに聞いたのだった。

 この日からパール・バックは娘を人の目からかばうようになった。