19 さらば花盗人

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  19

      19 さらば花盗人

 あんちゃんが旅立って、二週間ほどしたころ、花盗人に庭師が入った。それほど広くはないが、こんもりしていた庭木が刈られてスカスカになった。雰囲気が一変した。ノラ猫対策に違いない。妻は「猫たちの居心地がずいぶん悪くなったわね」と勝手なことをいった。これではノラたちも安心して餌を食えまい。
 ほどなく三毛が姿を消し、チビはそばの国道の溝に出没するようになった。私たちがいくと、どこからかやってくるのだが、餌を一口くわえると飛んで逃げる。おどおどしている。その原因がわかった。ある日、チビが出てこないので国道の溝に餌を置いていたら、髭面の(猫はだれでも髭面だが)、山賊のような形相の大ネコがヘッドライトに浮かんだ。これならチビが恐れるのも無理はない。妻はさっそく「デビル」とニックネームをつけた。
 チビが安心して食べられるように、デビルには1ブロック先の溝で別に餌をやることにした。デビルは風貌に似ず、律儀でいつも溝の自分の定位置で待っている。雨が降り続いた冬の夜でも、溝の中で前足を雨水に浸して踏ん張っているのをみたときは感動した。
 妻は「つぎつぎノラに手を広げるのはやめよう。しんどくなるばかりで、きりがない」と反対した。じつは一週間ほど前にも、このあたりで子猫が通行人に悲痛な叫び声をアピールしていた。このときも妻は反対し、横を向いて通り過ぎたのだった。けれど、デビルのひたむきな姿勢には妻も沈黙してしまった。あんちゃんの代わりに一匹がもどってきたというわけだ。

 この陽動作戦はうまくいった。しかし、先住者はデビルだけではなかった。もう1匹いるようで、そいつは姿を見せず、溝の中を不器用に音をたてて行ったり来たり、「脱兎」のように走り回る。チビはその脅威にもさらされていた。
 ある夕方、国道沿いの例の豪邸の前を通ると、二階の庇(ひさし)のくぼみのようなところでチビが夕日を受けていた。まだちびっ子なのに、人間に捨てられ、兄貴分のあんちゃんを失い、居場所を追い出され、デビルや脱兎に襲撃され、ポツンとたたずんでいる様子がなんだか胸に残った。
 庇の下の国道は、あんちゃんの事故現場だ。あれから何度か雨や雪に洗われたが、赤黒い血痕の跡はまだ消えずに生々しく浮いている。チビはあんちゃんを思い出しているのかなとつい感情移入した。
 このころから、チビは花盗人周辺を離れ、古家コースに合流したようだった。コース途中の小学校の隣に石垣に囲われた高台の畑がある。ここでよくチビと出会った。まわりにだれもいないときは、畑に続く小さな坂道をのぼって餌を置く。チビは私の足元にまつわりつくようにして一緒についてくるのだった。人の気配がするときは、道を歩きながら坂道にポーンと餌を投げるように与えた。
 国道沿いの溝で「デビル」と「脱兎」、石垣で「チビ」、空き家前の溝で「人鳴き猫」、古家の植え込みで「尻尾」??餌やりは順調だった。毎日、ノルマをはたしたような気持ちになって帰途につく。
 
 その日は断続的に降り続いていた雪がやんで、散歩気分で国道を遠回りした。三毛が姿を消して十日ほど経っていた。いちばん接触の多かったノラだ。2人とも心が晴れない。
「この寒いのに、どこをうろついているのや」
「食べ物は大丈夫なのかしら、私たち、こうして歩いているのだから、みつけてくれればいいのに」
「あいつは人間にとっつきが悪いからなあ。なかなか餌にありつけんで。あほなやつや」
家出した子供を案じる気持ちはこんなものかとおかしくなった。国道に沿った畑が雪景色になっている。妻が耳をすますようにして2,3度振り返った。「あ、やっぱり、みーちゃんだ。みーちゃん!!」
 雪の畑を横切ってネコが一直線に走ってくる。妻は万一に備えて持ってきた三毛用の餌を取り出した。「ミャ、ミャ」、寡黙な三毛が精一杯の喜びを小さい短い声であらわした。

あんちゃんとデビル、脱兎が入れ替わっただけで、また平穏が戻ってきた。
 だが、この平穏さにあぐらをかいていたのかもしれない。


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 18

18 ふたりの詩人??金子みすゞ 八木重吉

 著名なクリスチャン、シュヴァイツァー博士について触れておきたい。医療伝道家神学者、音楽家、哲学者、そしてノーベル平和賞を受けたことでも知られるが、博士の中心思想は<生への畏敬>である。
 
 北森牧師は先述の「創世記講話」のなかで、人格的存在と非人格的存在の区別を繰り返し強調し、「(博士の思想では)人格であろうが、非人格であろうが、生きているものは全部畏れかしこまなくてはならない」と前置し、博士は蚊が自分の手を刺しても絶対に殺さない、向こうへ飛んでいけ、と追い払うだけらしい。けれど、これはおかしい。医者は病原菌を殺さねばならないではないか。蚊を殺していけないのなら、なぜチブス菌は殺していいのかーーーと批判している。

 理屈はそのとおりだ。しかし、話は簡単だ。これもまたひとつのサムシングロングなのだ。

 理屈っぽくなった。心の底から言いようのない悲しみとサムシングロングが立ち上ってくるような二人の詩人の、やわらかな言葉を聴いてみよう。

 金子みすゞは大正末期、西條八十に「若き童謡詩人の巨星」と称賛されたが、放蕩無頼の夫に詩作を厳禁され、のちに離婚。さらに一緒に暮らしていた一人娘を引き取っていかれるのを悲しんで26歳のとき自らの命を絶った山口県の人。

           大漁
 朝焼小焼けだ
 大漁だ。
 大羽鰮(イワシ)の
 大漁だ。

 浜は祭の
 ようだけど
 海のなかでは
 何万の
 鰮(イワシ)のとむらい
 するだろう。

           
           おさかな
 海の魚はかわいそう。

 お米は人につくられる、
 牛は牧場で飼われてる、
 鯉もお池で麩(ふ)を貰う。

 けれども海のおさかなは
 なんにも世話にならないし、
 いたずら1つしないのに、
 こうして私に食べられる。

 ほんとに魚はかわいそう。


 次に貧困の中で信仰と詩作と家族愛に生き、妻子を残して29歳で亡くなった敬虔なクリスチャン八木重吉の詩。

             ばったよ
 一本の茅(かや)をたてにとって身をかくした
 その安心をわたしにわけてくれないか

 うなだれて
 明るくなりきった秋のなかに悔いていると
 その悔いさえも明るんでしまふ

 わたしのまちがいだった
 わたしのまちがいだった
 こうして草にすわればそれがわかる

 とうもろこしに風が鳴る
 死ねよと 鳴る
 死ねよと鳴る
 死んでゆこうとおもう

 キリスト教は、人間以外の、動物も虫けらも植物も非人格で、したがって人格的存在である人間は遠慮なくこれらを所有し、食べていいのだ、というけれど、ここでは、人間もバッタも茅も草もトウモロコシも風もひとつの世界に溶け込んでいる。みんな平等に息づく地球の構成員になっている。