18 ふたりの詩人 金子みすゞ 八木重吉
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 18
著名なクリスチャン、シュヴァイツァー博士について触れておきたい。医療伝道家、神学者、音楽家、哲学者、そしてノーベル平和賞を受けたことでも知られるが、博士の中心思想は<生への畏敬>である。
北森牧師は先述の「創世記講話」のなかで、人格的存在と非人格的存在の区別を繰り返し強調し、「(博士の思想では)人格であろうが、非人格であろうが、生きているものは全部畏れかしこまなくてはならない」と前置し、博士は蚊が自分の手を刺しても絶対に殺さない、向こうへ飛んでいけ、と追い払うだけらしい。けれど、これはおかしい。医者は病原菌を殺さねばならないではないか。蚊を殺していけないのなら、なぜチブス菌は殺していいのかーーーと批判している。
理屈はそのとおりだ。しかし、話は簡単だ。これもまたひとつのサムシングロングなのだ。
理屈っぽくなった。心の底から言いようのない悲しみとサムシングロングが立ち上ってくるような二人の詩人の、やわらかな言葉を聴いてみよう。
金子みすゞは大正末期、西條八十に「若き童謡詩人の巨星」と称賛されたが、放蕩無頼の夫に詩作を厳禁され、のちに離婚。さらに一緒に暮らしていた一人娘を引き取っていかれるのを悲しんで26歳のとき自らの命を絶った山口県の人。
大漁
朝焼小焼けだ
大漁だ。
大羽鰮(イワシ)の
大漁だ。
浜は祭の
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮(イワシ)のとむらい
するだろう。
おさかな
海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩(ふ)を貰う。
けれども海のおさかなは
なんにも世話にならないし、
いたずら1つしないのに、
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
次に貧困の中で信仰と詩作と家族愛に生き、妻子を残して29歳で亡くなった敬虔なクリスチャン八木重吉の詩。
ばったよ
一本の茅(かや)をたてにとって身をかくした
その安心をわたしにわけてくれないか
うなだれて
明るくなりきった秋のなかに悔いていると
その悔いさえも明るんでしまふ
わたしのまちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして草にすわればそれがわかる
とうもろこしに風が鳴る
死ねよと 鳴る
死ねよと鳴る
死んでゆこうとおもう
キリスト教は、人間以外の、動物も虫けらも植物も非人格で、したがって人格的存在である人間は遠慮なくこれらを所有し、食べていいのだ、というけれど、ここでは、人間もバッタも茅も草もトウモロコシも風もひとつの世界に溶け込んでいる。みんな平等に息づく地球の構成員になっている。