17 キリスト教と唯物論・仏教と科学

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 17

17 「キリスト教唯物論」――「仏教と科学」

 動物をキーワードに、キリスト教と仏教を勘案すると、ある図式が浮かぶ。「キリスト教唯物論」、そして「仏教と科学」、という組み合わせである。一見、異質のようだが、それぞれ共通点がある。話は硬いが、ついでに書いておこう。
 登場するキャラクターは「超越者=神・仏」と「人間」と「動物」の3者である。
 キリスト教によると、この3者の関係は「人間は神を直接の目的とし、魂によって神と共通の地盤につながっている。一方、動物が直接の目的とするのは人間であり、人間を通して間接に神を目的とすることができる」
 神←人間←動物というわけである。
 
 もっといえば、人間は部分的に神につらなるルートをもつが、動物は神はおろか、人間とも完全にシャットアウトされている。これは聖書でもそうなっており、古代ギリシャ哲学でも「理性をもつ人間」とそうでない動物という理由で、峻別されている。これが西洋の伝統的な人間観だった。
  
 つぎに唯物論でいえば、ヘーゲルの「あらゆる事物は人間の所有となることができる。そして動物はひとつの事物である」という考え方が基本的にマルクスに継承されている。人間は神とつながる人格であり、動物は人間が所有する事物であるという点で、両者は共通しているのだ。

 ところが近代の科学(進化論)によって、この関係が崩壊した。
 人間は神とつながっているのでなく、逆に動物とつながっていることが科学的に明らかにされたのだ。初心者向けの解説書を斜め読みしただけだが、宇宙論相対性理論量子力学生命科学、などなどの分野でも同じようなことが書かれている。このような「科学」は、キリスト教よりはるかに仏教に近い。
 仏教は人格神をもたないし、人間も動物も同じ「衆生」、生き物仲間である。だからこそ生き物を殺すことを五戒、十戒の第一にあげ、もっとも重い罪と定めている。その重罪を犯しつつ、人は共食いを続けているわけで、北森牧師に突っ込まれた矛盾である。生きとし生きるものの永遠の悲哀、サムシングロングというものであろう。