16 われら地球上の共食い仲間

  野良猫たちとさまよったボクの仏教入門 16

16 われら地球上の共食い仲間

 ひとまず問題をここまでに絞って私の言いたいことを2つだけ。
 1つ。肉や魚を食べるとき、キリスト教徒はまったくサムシングロングを感じないのだろうか。私のこどものころ、自分の家で飼っていた鶏が肉になったがどうしても食べることができず、涙を流す子はいくらもいた。毎日餌をやっていた牛が肉になるため売られていく後姿に大声で泣く子もいた。先年、愛媛県の日振島でハマチ養殖業者に嫁いだ東京出身の女性と話した。イケスに指先を入れると稚魚が吸い付きに来る。はじめのころ、出荷して食べられてしまうのがかわいそうでめそめそしていた。40歳のいまも、なんだかせつないと言った。
 兵庫県の神戸牛の肥育農家の老人は「家族と同じだ。出荷のときはこの年になっても泣くよ」といっていた。私の父は晩酌でチリメンジャコをつついていたが、ふと手を休めて箸の先の一塊のジャコをみながら「一口でこれだけの命を食っているんやな」とつぶやいたことがある。子供心にも覚えている光景で、いま、あれが父のサムシングロングだったのではと思いあたるのだ。
 三重県南勢町五ヶ所浦のタイ養殖業者は「都会には店のイケスに魚を泳がせているのが売り物の飲み屋さんがあるでしょ。あれは魚もお客さんもかわいそうだ」という。魚は人間の視線にさらされてストレスがいっぱい。そんな肉は格段にうまくないそうだ。
 この話を聞いて私は壁がわりに魚を泳がせた水槽のある大阪梅田の商店街を避けて通るようになった。私1人でも視線の数が少ないほうが魚たちも心やすまるだろう。そういえば、この水槽の魚の哀しそうな目。それにときどき死骸になって漂っているのをみた。
 さて、ところで私自身はどうなのか。えらそうなことをいっても、やっぱり生き物を食べて命をつないでいる。すき焼きも刺身も好きだし、大食漢に属する。生命科学者の柳澤圭子さんがどこかで書いていたように「この地上へ生き物として誕生するのはかなしい宿命」である。生き物は生き物の命を食べて生きるしか方法がない。地球上のすべての生き物の祖先は同一というから、動物を食べようと魚を食べようと、植物を食べようとプランクトンを食べようと、みんな共食いだ。人間だけでなく、われわれ生き物は犬も猫も魚も牛もお互い様、すべてが共食いしている。ほかに食べるものがこの地球にはないのだ。
 ただ、私は多少ながら「慙愧の念」をもっている。それだけだ。すき焼きや刺身を食べるとき、毎度、北森牧師がおっしゃるような涙は流さないが、ときどきは慙愧の思いが去来する。共食いに伴うサムシングロングである。だからダシをとった鳥のガラの肉はムダにせず、細部までむしりとってノラ猫たちの餌にまぜてやる。ブロイラーの飼育現場を見たことがあるが、あんな地獄図はないとおもった。ガラになった鳥もいまはあの世で新しい命を得て謳歌していることだろう。この世の名残の命は感謝しながら、人間とノラ猫が、どんな切れ端もムダにせず共食いさせてもらっていますから、どうか成仏してくださいね、という気持ちである。
 このほか、ジャコ類はもちろん頭から尻尾まで食べるし、カレイやイボダイ(シズ)など骨の柔らかな魚は頭も噛み砕いて食ったり吸ったりして、カスだけを吐き出す。ムダなく食べることで慙愧の思いをすこしでもはたしたいとおもうのだ。いや、これはきれいごとだ。貧しかったころ、祖父母が節約するために孫の私にしつけたクセだ。成人してから私がこのように理屈づけして我が家ではこの食べ方が伝統になっている。
 
 最近のNHKの番組はずいぶん内容がよくなった。少数派や日の当たらない階層への配慮も届きだした。気に食わないのは生き物への配慮のなさである。たとえば釣上げた魚を若い女性が、キャーキャーと大喜びで騒いでいるシーン。夏日の川原に放置された魚は苦悶しているのにそのまま番組は進んでいった。こういう命への無神経さがこの国でいまファッション化している親殺し子殺し他人殺しの温床にもなっているのでないかとおもわれた。

 2つ。北森牧師は人間のような人格的存在と、動物・植物という非人間的、非人格的存在とをひとつの「生物」グループに括ってしまうのはおかしいと割り切っておられる。その論拠は「聖書にそう書いてあるから」、というだけだ。キリスト教や聖書の圧倒的な偉大さを重々承知したうえで、ときどきキリスト教関係の書物に散見されるこの種の粗雑さはいかがなものか。割り切りが単純すぎる。仲間の命を共食いさせてもらっているのでないか、もう少しサムシングロングを感じていただきたい。