15 サムシングロング(何か間違ったもの)

野良猫たちとさまよったボクの仏教入門 15

15 サムシングロング(なにか間違ったもの)

「創世記講話」のなかで、北森嘉蔵牧師は<すき焼き>と<刺身>という分かりやすい食べ物を持ち出して、さあ、どうだ!と仏教の生物観に攻勢をかけている。北森牧師らしい大胆さ、歯切れのよさだ。
「人間が牛を殺してビフテキや、すき焼きを食べる、魚を殺して刺身や焼き魚を食べる、植物を殺してサラダを食べる。これはたいへん恐ろしいことだ」と前置を整えたうえでーーー。
 仏教は、生きとし生きるものはすべて殺害してはならないという立場。人間以外の動物や植物でも殺してはならない。けれど生き物は他の生き物を犠牲にして殺さなければ、生命を維持することはできない。こんなに悲しい恐ろしいことはないということになり、仏教的にいえば、食物をとるというのは人間の逃れられない宿命的な罪業ということになる。
 
 けれど、私たちはすき焼きや刺身を食べるとき、罪を意識し、涙を流しながら食べるだろうか。私たちの実際の生活感情と離れている。人間のような人格的存在と、動物・植物という非人間的、非人格的存在とを「生物」グループに括ってしまう仏教の考え方はおかしい。
 これに対してキリスト教はどうか。
 聖書でも「殺すなかれ」と戒めているが、その対象は人間に限られる。人間を殺していけないが、牛や魚、動物・植物一般は殺して食べてよろしい。すき焼きや、刺身は罪の意識をもつことなく食べてよいことになっている。聖書は非合理的におもわれがちだが、こういう問題に関して割り切りすぎと思えるほどに合理主義的なのですよ、と説明しておられる。

 同書の別の個所で、北森さんは先述のW・ジェイムズを引用しながら、「人間が宗教的になるのは自分の人生の中に何かしら間違ったもの(サムシングロング)を感じるときだ。自分の人生にはサムシングロングなどひとつもないと思う人は非宗教的で、そんな人はいつまでたっても宗教信仰には入らない」と切って捨てている。