13 動物とキリスト教

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 13




13 動物とキリスト教 




私の祖母は紀州なまりで「かわいそうによぉぅ」が口癖だった。

知り合いが離婚しても、亡くなっても、野良犬がゴミ箱をあさっていても、雨の公園を子猫が鳴きながら歩いているのを見ても、浴槽に夏の虫が飛び込んでも、蛍光灯のカバーにヤモリがまぎれこみ、干からびた死骸でみつかったときも、大雨で増水した用水路を蛙が押し流されていくのを見たときもそういった。

こどもの私はその口癖をあざ笑っていたが、いま祖母の年頃になって、なんだか似てきている。このまえも、老人グループで里山を歩いたとき、クモの巣がぎっしり張られている小道にはいった。先頭の私は木片で払い落とさねばならない。クモはせっかく汗を流してつくった巣を人間の気まぐれで叩き壊され、命からがら逃げていく…私はつい、「かわいそうに」とつぶやいて先頭を代わってもらった。

ひところ、登山のとき足元のアリが気になった。歩き始めは気をつけて避けるのだが、疲れてくるとそんなことはいっておれない。「アリの命を気にするとはやっぱり妹のいうように俺はノイローゼなのかな」と心配になったが、のちに大谷大学の元学長・廣瀬たかしさんも似たようなことを話していた。朝日カルチャーセンターの親鸞の講義で「みなさんはこの会場にくるまでにきっと知らぬうちに路上のアリを踏みつけて…。私は今日まで海の、大地の、無数の生き物を食べてきました。私の罪の深さは底しれず…」というくだりがあった。アリを気にするのは自分だけでないと安堵した。

ところで、あんちゃんが死んだとき、ふと宗教は動物の保護をどう考え、死をどう悲しんでいるのだろうかと気になった。自分の無学を棚にあげていうのだけど、キリスト教は仏教に比べて冷淡、無関心なのでないだろうか。それほどキリスト教関係の本を読んだわけでないが、ぼくの読んだ範囲内でいえば、動物に好意的な記述は記憶にない。そもそも動物がほとんど登場しないのだ。以前、ある牧師さんの詩集に珍しくノラ猫が登場したしたことがある。正確な内容は忘れたが、<教会で牧師さんが説教しているとき、猫が一匹まぎれこんで、追い出すのに大騒ぎになった。猫がいなくなって、ふたたびみんなで神に敬虔な祈りをささげた>みたいなことが描かれていて拍子抜けだった。

改めて手元の岩波キリスト教辞典から動物に関する項目を抜き出してみた。



「(動物を)人に支配させる…、神は、人が食べてよい清い動物とそうではない汚れた動物を規定している」

遊牧民であった聖書の民にとって、動物との関わりは農耕民族と比べて親密で…敵対する人間の所有する動物であっても大切に憐れみをもって扱うべきだ」

「動物は贖罪のための犠牲という祭儀上重要な意味があり、神の僕の捧げる小羊がキリストの象徴となった。このような聖書の伝統は現代の西欧における動物愛護運動にも受け継がれている。」

「1824年、家畜や愛玩動物などの人道的な取り扱いを奨励するために英国に動物虐待防止協会が類似の団体が数十年のうちに欧米のキリスト教諸国で次々と生まれ、動物実験や生体解剖、毛皮、ハンティングに反対し動物の権利を守る積極的な活動を続けている」などと説明されている。



このなかで動物実験に関してはあとで書くが、私も多少は勉強した。野放しに近い日本など仏教国に比べ、たしかに欧米のキリスト教国は法整備がしっかりしている。けれど、どうもすっきりしない。辞典の項目を不規則に並べただけにしろ、要するに「動物は人間の食材」であり、「動物は人間の犠牲になって当然」である。だから、愛護しよう、動物は人間のツールだから、敵のツールにもあわれみをもって、というのだ。いかにも人間の都合だけで生き物をモノ扱いしている。ボクのノラ猫を通じたささやかな経験だが動物でも痛みやつらさや悲しさやひもじさがあるようにみえる。鳴いたり怒ったり喜んだりする。命や感情のある存在としての動物を隠しながら、一方で動物の権利うんぬん、というのは得手勝手な気がする。