11 ノイローゼとちがうの?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 10

10 もう、ごはんを探して歩かなくてもいい…


 妻は夕食の仕度をしていた。アンコウ鍋らしい。「かなしいことがあった」と前置きして、私は早口に、あんちゃんの事故死を伝えた。妻の目や鼻のあたりがすぐに赤く緩み、「もういわんといて」といった。私は何か言葉を続けようとしたが、妻は「もうやめて、ご飯が食べられなくなる」と強く言ったのでやめた。私は食欲がなかったが、焼酎を湯割りにしてぐいぐいやりながら、妻の気を害さないように、ぽつぽつ断片的に報告し、「あんちゃんも死んだほうが幸せなんだとおもうようにしよう」と慰めた。妻は「そうよね。今晩からもう寒い中をあちこちごはんを探して歩く必要がない…」と目頭を押さえた。

「死んでまもなくだったと思うよ。まだ生きているような顔をしていた」と私がいうと、妻は「ひょっとしたら、まだ生きていたのでは。脳震盪かなにかで」「もう一度みてこようか」と私は立ち上がりかけた。「もうやめとき、同じことだわ…いまさら助からない」

私もあまりのめりこむのはやめようとおもった。夢に出てくるかもしれない。いや、それに確かに死んでいた。死んでいないにしても、ぐったりとして目も動いていなかった。車が頭の上を通ってもじっとしていた。血が路面に広がっていた。ダメに決まっている。それにーーノラ猫を安楽死させるいちばんいい方法は、餌に眠り薬をいれて凍死させることだ、と聞いたことがある。それが猫のいちばん楽で自然な旅立ちになるという。もし、あんちゃんが生きていても、もはや意識不明で痛みはあるまい。路上で1晩すごすと明日は確実に凍死しているだろう。いちばん楽で自然な死に方をするのだ。もうご飯探しの心配をすることもなく、安らかに天国で遊び回ることができるのだ、最高にラッキーじゃないか、あんちゃん!

  夕食後、私も妻も餌やりのことは黙っていた。夜おそくなって妻が「つらいけど、いこう」といった。最近はノラたちが私たちの姿をみると、花盗人付近から国道に飛び出してくるので、遠回りして逆コースでいくようにしていた。花盗人にはあんちゃんはいなくても、三毛とチビが待っているだろう。ひょっとしたらあの死骸は自分の知らない、どこか別のネコかもしれない、そうあってほしい、と願う気持ちがあった。ノラだって飼いネコだって人間だって命の尊さは同じ、とふだんえらそうなことをいっているくせに、私も勝手なものだ。勝手といえば、あのとき死骸を放置したまま私は帰ってきた。だれかがなんとかするだろう、と自分に言い聞かせて。生きているあんちゃんはいいが、死体はどうあつかっていいのか、触るのがこわかった、正直に言うと、気味悪かったのだ。

少し離れたところから国道の事故現場をみた。ヘッドライトにはなにも浮かんでいない。なにごともなかったように車が走っている。当然のことだ。ネコ1匹で影響があるはずがないじゃないかとわれながらばかばかしかった。花盗人へ。ひょっとして、あのトリオがなにごともなかったように集結してくるのでないか。あんちゃんはいつものように豪放磊落に派手な身振りで鳴きまくるのでないか。――すぐに三毛とチビがきた。けれど、あんちゃんはこない。やはりあの死骸だったのだ。


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 11

11 ノイローゼとちがう!?

 翌朝、出勤の途中、事故現場を通った。血痕はそのままだったが、死骸は歩道の植え込みに移されていた。私より心根のやさしい人のしわざであろう。そのうち市が処理してくれ、あんちゃんは一件落着となるのだろう。見納めの死骸をもう一度脳裏に刻んだ。そして、人通りのいないのを確認して、恥ずかしかったが、こっそり素早く合掌した。

けれど死骸はモノで、もうそこにはあんちゃんはいない。物体にすぎないとおもうと、昨夜とうってかわってクールな気持ちになった。駅に急ぎながら、過ぎた日のあんちゃんとのやりとりを思い出していた。生きたノラはほんとうにやっかいだ。動くし、察しあいをせねばならないし、タイミングがある。死体はいつまでもそこに動かずにある。手間をとらせないし、死体から生前のあれこれをおもい、死後の彼方を想像し、哲学し、宗教することだってできるぞ。

帰りには、もう死骸はなかった。なにか落ち着かない。だれかに話したかった。東京の妹は動物好きでこれまで犬やうさぎを飼ったことがある。しかし、私の話をきくと、とたんに笑い出した。「ノラ猫の交通事故死なんて、そんなこと考える暇はないって、多くの人が言うと思うよ。 にいちゃん、ちょっとノイローゼ気味とちがう?」

 妹は動物好きには違いないが、私からみるとちょっとへんなところがある。以前、大型犬を飼っていたが、庭に犬をつないだまま、えさだけを大量に与えて一週間ほど家族が留守にした。その後、東京のマンションに移り、犬が飼えないので、伊東に一軒家を借りて庭に犬を放置。一週間〜半月ほどの間隔で犬に餌をやりにいく。主人が忙しく、こどもも学校に通い、人手がなかったのはわかるが、犬の立場にもなってやれ、と怒鳴ったことがある。このまえも、冬はノラ猫は餌も乏しいし、寒くてかわいそうだ、というと、げらげらという感じで笑った。

 ウサギは知り合いの人がくれたという。マンションのベランダで飼っていた。あるとき、急にいなくなった。お隣さんのほうへ逃げていったのかなあ、それともカラスにとられたのかなあ、「かわいそうなことをした」とは言っていたが、懲りた様子もなく、すぐに新しいウサギを飼いだした。