9 あんちゃん死ぬーーー統計の死と個体の死

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 1

1 ノラ猫たちの誕生07・10・1

張り紙合戦

出勤途中の小さな畑のそばの空き地に子猫たちがたむろするようになった。最近引っ越して、空き家になった庭先に8匹ほどの子猫が置き去りにされていたらしい。それがぞろぞろ出てきて、食べ物をねだったり、日向ぼっこをしたりしている。

先日、畑の柵に「猫に餌をやらないで。たいへん迷惑をしています」と大きな張り紙が出た。その翌日、今度は「猫を放し飼いにするほうがわるい」と丸っこい少女字体の応酬。畑の向こう側をアパートがとりかこんでいる。そこに住む若い女性たちだろうと想像した。彼女らがご飯の残りをやっているのであろう。ところで三日目、「飼い猫ではない。ノラ猫だ。餌をやるな」とダメ押しの強い警告が出た。張り紙合戦はこれで終わり。

空き地には金網が張られた。猫たちの居場所はなくなり、ごみ収集日など子猫たちはビニール袋にしがみついたり、通行人のあとをつけて運よく拾われたり、逆に蹴飛ばされたり。やがてみんないなくなった。



忘れかけていたころ、妻が「あの子猫たちの残党がいたよ」と報告にきた。畑にほど近い箕面川のほとりをうろついているという。翌朝出勤のとき、遠回りして、のぞきにいくと橋のそばの野外駐車場で3,4匹の子猫が離れ離れに風に吹かれている。ちかづくと、ものほしそうに声をあげて寄ってくる。わが家には2匹の元捨て猫がいる。出かけに猫用の缶詰をひとつ持ってきた。橋のたもとの大木の下でビニール袋をひろげておすそわけした。子猫たちは犬のようにむしゃぶり食った。「よほどおなかがすいているらしいな」と、いまおもうと他人事のように妻に話した。私のえさやりはこれ一回きりだったが、妻はその後、ひとりでほぼ隔日に夕食のあと、えさやりにでかけていたらしい。というのも、わが家の二匹はともに16歳を超える老猫で食欲がなく好き嫌いも強い。毎日残飯が出た。庭の植木に埋めているうちに飢えているノラたちが浮かんだという。

東京のおばさんと餌やりのバトンタッチ

ある夜、餌やりに出かけた妻は橋の上で初老のおばさんとすれ違った。おばさんがしゃがんでいた橋の欄干付近には薄明かりにビニールの容器にはいった餌らしいものがみえた。おばさんは猫の餌を置いてすばやく立ち去ったのだろう。

 数日後、また会った。妻が橋のたもとの木の下に餌を置いていたら、おばさんがやってきて、今度は話しかけてきた。「畜生だってひもじいのがつらいのはきっと人間と同じですよ。この近所の人は無関心だ、冷たい。ノラがやせ細っている。」おばさんは近くに実家があり、姉が老母の面倒をみている。自分は横浜に嫁いでいるが、老母の容態が悪いというのでしばらく滞在していた。すこし持ち直したので、ぼつぼつ横浜に帰らねばならない。ノラをこのままにして帰るのは心配だった。「でも、餌をやってくれる人がいるのがわかって心強い。あなた、お願いしますね」

 おばさんからバトンタッチされて、妻の餌やりは毎日になった。その話を聞いて私もときどき同行するようになった。自宅から歩いて5,6分。橋に近づくと、妻とすっかり顔なじみになったらしい猫たちはどこからともなく集まってきた。数えると7匹ほどいる。川の両岸に連なる民家や、たもとの小さな照明で、橋の上はぼんやり明るい。子猫も成猫も、白、茶、黒など体毛もさまざまだ。「残党だけでなく、あちこちのノラも合流してくるみたいやね」と妻がいう。私たちが餌場に向けて橋を渡りだすと、数匹が欄干をお互いの身体を跳躍台にして器械体操のように交代で飛び越えながらついてくる。喜びを全身で表している、なんだか感動してしまう。足元にまつわりつきながらついてくるのもいるし、離れたところを知らん顔をしてくるのもいる。

 猫の餌場は橋の途中の欄干と、たもとの木の下と、すぐそばの溝、の三箇所だ。そこに缶詰とキャットフードをまぜた、おにぎり状のえさをいくつか置いてやる。

夏の終わり。すっかり生い茂った堤防の雑草を毎年この季節に市の作業員が刈り取っていく。堤防は見晴らしがよく箕面連山を背後に緑の平原のような景色になる。夕方、橋を通ると、子猫たちが元気一杯に平原を走りまわっているのがみえる。昔、バレエでみた小人の踊りのようにかわいくて、華やかだ。 毎日、夕食後のえさやりが楽しみになったが、つかの間だった。橋のたもとにはみ出た形になっていた堤防の続きの荒地が整地され、安物の洋館建てができた。堤防の入口には金網が張られ、子猫は出入りできなくなった。

 


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 2

2 「汚い猫を子どもに近寄らせないで!!」

住民に叱られる


 ある夜、私は急ぎの仕事があり、妻が一人で餌やりにでかけた。帰ってくるなり、「叱られた」とべそをかいている。橋のたもとに近い野外ガレージの前の家から標準語の若い茶髪の女性が出てきて、「猫が車にあがって汚す。うちの子供は猫をみるとこわがる。あなた、猫がそんなに好きなら自分で飼ったら?」と強い口調でいわれた。妻は「うちも捨て猫を2匹飼っています」と反論したら「とにかく、うちの子供に汚い猫なんかみせたくない。近づけたくないで。よそでやってちょうだい!」とまくしたてられたという。

 思えばいままであまりに無防備だった。人目を意識したことがなかった。たしかにあちらにも言い分はある。猫好きな人もいるが、嫌いな人もいる。ノラをかわいそうと思う人もいるが、汚い、いやな存在、とみる人がいてもしかたない。妻は「どこにいっても猫はすんでいるじゃない。この世に生きている限り、猫をみないですごすことはできないわ。子供を猫に馴らすようにするほうがいいのに」とぶつぶついったが、近隣とのトラブルを避けるためにここでやめればいい。いったんはそう思ったのだが、翌日の夕食がすみ、いつもの時間になると、胸が重苦しくなる。待ちわびているノラたちの姿がさまざまに思い出される。

 場所を移動しよう。橋の反対側のたもとには、ノラ猫のシンパと目される古びた平屋建てがある。緑の垣根があり、そこからノラ猫が出入りするのをよくみる。犬を飼っているから野良猫たちはときにそのえさを失敬しているにちがいない、家族もそれを黙認しているのだろう。この古家から道は二つに分かれる。まっすぐ坂を山の方へあがると、車の往来がそれなりに多い国道へ。国道の向こうにわが家がある。

一方、古家を左折するとこじんまりした庭を構えた民家が並び、途中に幼稚園がある。その先は川沿いの道が少し続き、別の橋にぶつかる。住宅街ではあるが、人通りはほとんどなく、照明も少ない。ひっそりしている。ノラ猫たちへの餌やりの拠点を橋のこちら側に移そう。平屋建てを中心に、どうもノラ猫に優しそうな雰囲気がある。

翌日、私たちがいくと、猫が集まってきて、橋の向こうの餌場へ走りだす。私たちは橋の手前で立ち止まり、2,3度左右をみる、猫たちに合図のつもりだ。それからゆっくりユーターン。すぐに引き返してくる猫、けげんそうに振り向いたままの猫、しかし、三々五々、みんなこちらに移ってくる。古家から国道に通じる坂道の両側は高い壁になっていて足元に溝が沿っている。通行人はともかく近所の家からはみつかりにくそうだ。溝へ餌を分散して置くと、猫たちは殺到した。



ノラ猫の常連メンバー5匹




食べるのをみながら妻がおもな顔触れを愛称つきで紹介してくれる。

「三毛」――仲間が近づくと、ウー、と小さな唸り声を出してけん制する若者猫。毛色をそのままニックネームにつけた。はじめは意地悪そうで、好感が持てなかったが、あとあともっとも印象深いノラとなった。

「尻尾」。または「潜水艦」――めったに路上に姿を現さない。溝を移動し、人目に隠れて陰でしっかり食っている陰気で大柄な初老猫。尻尾がない。

「あんちゃん」――焼け付くような声を絞り出して走ってくるキジトラ。がっしりした体格で、腕力の強い粗暴な感じだが明るく、案外ヒトがよさそう。

「人鳴き猫」――あんちゃんそっくりだが痩せている。仲間と一緒に餌を食べようとせずなぜか単独で妻にくっついてくる。孤独で人懐っこくよく鳴く。

「チビ」――まだ初々しい子猫。妻がいくと喜んで大きな輪を描いてぐるぐる回るが、先輩に脅かされ、なかなか餌に近づけない。ロシアンブルーのまがいもの。

通勤の足が途絶える夜十時半ごろを見計らって私たちはでかけた。猫たちは待ちかねたように坂道の溝に集まってくる。毎日が楽しかった。

昼間、駅に向っていたことがある。私のちょっと先を歩いていた中年の主婦が例の古家前にさしかかると、なかからノラたちが数匹でてきて、主婦の足元にまつわりついた。主婦は左右をちらっとみて、さっとバッグのなかからキャットフードを取り出し、橋のたもとに置いて、素知らぬふりをして歩き出した。ノラたちは餌に群がった。私は主婦に追いつき、さりげなく話しかけた。

「猫、よろこんでましたね」。

主婦は疑わしそうな表情で、「ええ、まあ」とあいまいに答えた。私を警戒している様子がありありとみえる。

「腹をすかしているんでしょうね。猫を飼うからには、あの家の人も責任もって飼わないと」と私はいった。主婦におもねる気持ちはなく、本心からそうおもったのだ。主婦はだんだん私が敵でないことが分かったらしく「家の人もご苦労なさっているとおもいますよ。近所の手前がありますからね」と本音らしきことをいった。家人と知り合いなのかもしれない。

古家の垣根にマジックの張り紙が出されたのはそれからまもなくだった。「私の家ではネコは飼っていません。のらネコがどこからかやってきました。えさをやらないでください」とあった。近所の人に責められて書かされたアリバイ証明のようにおもわれた。このあたりも安全圏ではないのだ。




ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 3
 3 餌場を移動07・10・5

三毛はコニファーの陰からーーー第一の餌場は「花盗人」

 高い壁に沿った溝のなかで合同で餌に群がっていたノラたちがいつしか2グループに再編された。
 1グループは坂道をあがりきった国道沿いの古びた民家の庭先。小さな平屋だが、庭いっぱいに花と緑があふれ、玄関前には植木鉢がいくつも並んでいる。初老の神経質そうなおばさんが水遣りをしているのをよくみかけた。花が自慢なのであろう、「花を盗らないでください」というプレートが垣根にも植木鉢にも数ヶ所につるしている。なんだか不快だった。近所の人にしろ、通行人にしろ、花をわざわざ盗む人なんかいるようにはみえなかった。そんなに花が気になるなら、こっそり隠しておけばいいじゃないか、とおもった。人にみてもらいたいから花を咲かせているくせに。家の主にも言い分はあるだろうが、私はこの神経質そうな花咲かせおばさんに「花盗人」とあだ名をつけて、うっぷんをはらした。

 三毛は黄緑のコニファーの植わった鉢の陰に隠れていて、私たちがいくと、軍馬のような律儀な足取りで出てきた。交互に機械的に動く前足がかわいかった。毎日定刻に必ず待っていた。溝にいたころは憎たらしかったが、しだいに情が移っていくのが自分でも分かった。妻は三毛のために庭先の緑の茂みのなかの敷石に餌を置いた。そこへいつしか加わってきたのが、あんちゃんとチビだ。あんちゃんは大胆で神出鬼没だった。向かいの家の屋根の上から、隣家の塀の上から、焼けつくように鳴きながら寄ってきた。国道の向こう側から飛び込んでくることもあった。どういうわけか、あんちゃんにはチビがまつわりついていることが多かった。腕白者と小心者の組み合わせはおもしろかった。三毛は相変わらず単独で律儀で、雨の日も花盗人の玄関先にいた。三毛がまっさきに登場し、それをみてあわててあんちゃんが駆けつける、気がつくと、どこからともなくチビが紛れ込んでいる、そんなあんばいだった。

 妻はまわりを警戒しながら、庭先に三匹分の餌を小分けして並べた。花盗人の家は平屋だが、向かいの家並みは二階建てだ。窓がいくつもある。左右、上下、どこから人間が覗いているかわからない。神経が疲れる。大丈夫なのをみきわめてから、さっと餌を置く。その間、三毛は少し離れたところで立ち止まっている。クールで、喜びを表さない。妻が餌をおいて離れると、おもむろに足を運ぶ。

 大声で鳴き叫ぶ「あんちゃん」、輪を描いて喜ぶ「チビ」

 あんちゃんは、妻の付近をあちこち動きながら、大声で鳴き続ける。人目を気にする私たちにとっていちばん都合の悪い猫だ。チビはうれしくてたまらないというように、大きく輪を描いてわれわれの周りを走り回る。そのくせ、三毛とあんちゃんはがつがつと犬食いで食べ続けるのに、臆病なチビは一口餌をかぶりつくと、どこかへ逃げていく。食べ終わると戻ってきて、また一口くわえて…、という具合だ。私たちや2匹の先輩のそばでは餌を食えないのだ。これまでよほどいじめられてきたのだろうか。

 三毛は安心だけど、あんちゃんとチビは心配だと妻はいう。あんちゃんは車の行き来する国道の向こう側へしょっちゅう出かける。チビは、餌をやる間、大きな円周運動をするが、国道から車がはいってくると轢かれるのでないか。
 心配をよそに平穏な餌やりの日がつづいた。チビも相変わらず演舞のパフォーマンスはするが、だんだん慣れてきて三匹がそれぞれの位置を保ちながら落ち着いて食べている様子だ。餌は妻が通行人のいないのを確かめて緑の茂みの中へ適当に分散する。せいぜい1分たらずだろうが、その間、私は近所の人の気配を厳重警戒せねばならない。いちばん、せつない、つらい緊張の一瞬だ。とくに向かい側の家はゆだんならない。ふだんは人の気配がなくつい無視しがちだが、この間は、いつの間にか二階の窓に灯がついていて、若い女性が見下ろしていた。私たちがノラたちと出会い、餌場を確保し、私がきょろきょろ周りを監視している一部始終をずっと見物されていたのかもしれない。冷や汗が出た。それからは真っ先にこの窓辺を注意することにした。隣家は、ステテコ姿のおじいさんが愛玩用の子犬を抱いてふいに出てくることがあるが、それまでに犬が鳴くし、ドアをあける間があるから、こちらもとりつくろいの余裕がある。

 三匹はそれぞれ個性的で、たのしかった。花盗人前にいくと、鉢の陰から確実に三毛は出てきた。遅れてあんちゃんが大鳴きしながらかけつける。気がつくとチビもきている。茂みの中で並んで食べている三匹が家族のようにみえてきた。この家族には、親はいない。三匹はそろって親や飼い主に捨てられ、この世に保護者はだれもいない。幼いながら自分たちだけで力を合わせて生き抜いていかねばならないのだ。三毛はエプロンがけのしっかり者の長女役だ。弟たちのために働いて食料をまず確保している。あんちゃんは根は善良なのだが、怠け者できまぐれ。働きに出ても長続きせず、ふらふらしている。末っ子のチビはなにかと口うるさい姉ちゃんが苦手で、あんちゃんといるほうが楽しい。付きまとっている。そんな雰囲気だ。
 このときも三毛だけだった。少し待ったが、二匹はやってこない。第2グループを先にまわることにした。






ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 4

 4 餌より人間が好き?「人鳴き猫」10・8

第二の餌場は古家――石垣ーー幼稚園

花盗人の先10メートルほどはいったところに例の野良シンパの古家がある。老夫婦と犬が暮らしており、垣根からよくノラ猫たちが出入りする。ここを通ると、たいてい尻尾や人鳴き猫(人懐っこい鳴き猫の略称)に出くわす。古家の斜め前に小さな二階家があり、一階部分がまるごとコンクリート床でガレージや物置になっている。車が戻ってくるのが遅いのか、たいていシャッターがあがっている。人鳴き猫は私たちの足音を聞くとときどきこのガレージから飛び出してきた。この家の飼い猫かとおもったこともあるが、そうでもないらしい。ガレージをのぞいていると、後ろのほうから「ウエー、ウエー」とけたたましい声をあげて人鳴き猫の登場だ。頭をこすりつけるしぐさはどの猫にも共通する媚のポーズのようだが、人鳴き猫はそれが極端だ。後ろ足を爪立ちして腰を思い切り高く持ち上げ、揺すりながら頭を地面にこすりつける。つい女体を想像してしまう。「いやらしいわね」、と妻は顔をそむけるが、じつに人懐っこい猫で、橋のたもとの木の下で餌をやっていたころ、こいつだけは餌の輪にはいろうとせず、妻の後をずっとついてきた。橋の上で出会った横浜のおばさんが、「てのひらに載せた餌を食べるノラが一匹います。身体も触らせる。飼われていたのが途中で捨てられたのでないかな。猫とりが心配…」といっていたけど、それは人鳴き猫に違いないと妻はいう。

ノラ猫たちは餌をやりにいくと親しそうに走ってくるが、警戒心が強く、一定以上には近づかないし、手ずからの餌をたべることはない。一回りはなれたところで「そこに置いてくれ」というように鳴くだけだ。身体を触ろうとしても素早く逃げられる。一度も成功したためしがない。

「この猫は餌より人間といるのが好きみたい。」と妻はよくいうが、餌場が橋のたもとから古家周辺にかわっても、人鳴き猫にはそのくせが残っている。古家の垣根、溝の中、空き家の玄関の脇、路肩のマンホール、どこに餌をおいてもちょっと鼻先を寄せるだけでこちらについてくることがある。「餌やりの時刻に姿を見せるのだから、餌がほしいんだ。人に見られながら食べるのがいやなんだ。とにかく置いといてやれ。あとでこっそり食べにくるよ」と私は言った。



いま、人鳴き猫は玄関脇に置いた餌に立ち止まっている。気がかわらないうちにそっと私たちは立ち去った。つぎのお客さんは「尻尾」だ。

古家の隣は垣根の前にいつもオートバイをとめている家、その隣は和風の門構え、空き家などこじんまりした家並みが続く。それがとぎれると、石垣に囲まれた高台の空き地、小学校と続く。歩いて5,6分の行程だが、「尻尾」に出会わない。尻尾をみつけるのは一苦労だ。鳴かないうえにほとんど路上に姿をみせない。溝から溝へ隠れて私たちのあとをついてくる。私はこれまで一度も彼の所在を察知したことはなく、いつも妻がみつける。なんだかそんな気がして振り返ると、尻尾の目が溝の中で光っているのだそうだ。食い物を運んできてもらっているのに、無愛想で声もあげず、闇の底をこそこそ動くこの陰気で厚かましい猫が私は嫌いだ。妻も同感だというが、家をでるとき、やっぱり少なめだが餌を準備してくる。「だって、いつもいるんだもの。気になる」

みつからないときはもう一度古家方面へ引き返す。往復する間にはまず妻の視野に尻尾ははいる。それでもいないときは、古家の垣根の下に餌をもぐりこませる。餌はさっきいったように、缶詰とキャットフードをまぜておにぎりにしている。翌日いくときれいになくなっている。

この夜は往復してもとうとう尻尾を確認できず、妻は「いつもより時間が遅かったので餌を探しに遠出したのかなあ」と残念そうに餌を垣根にしのばせた。

古家から花盗人へ戻る。コニファーの鉢にももう三毛の姿はない。「おなかいっぱいになって安心してねぐらに帰ったのね」と妻がいった。でも、あとの2匹、あんちゃんとチビはどこにいったのだ。しばらく付近を歩いたが今夜は諦めることにした。



国道を渡って豪邸の上で身をよじらせるあんちゃん




わが家へ帰ろうと国道を渡っていたら、ニェーン、ニェーン、焼けつくようなあんちゃんの絶叫が聞こえてくる。どうやら国道の反対側らしい。あわてて横断した後、私は国道沿いにあんちゃんを探した。豪邸が5,6軒ずらりと並んでいる。

そのうちの一軒の大きな高い石垣の門の上から、身悶えして鳴いているあんちゃんがヘッドライトに浮かんだ。門前にきたが、邸内は大きな樹木が何本もそびえる緑深い庭で家人にみつかる心配はない。駅からの人通りは絶えないが、私たちに関心はなさそうだ。ただ、あんちゃんは鳴くばかりで地上に降りてこない。門の高さは2メートル以上はある。餌を届けるにはあまりに高すぎる。私たちもうろうろするばかり。玄関の格子状のドアは下部は板でおおわれて、ネコも出入りできない。塀が低くなっているところまで誘導することにした。

私たちは玄関前から少し歩いた。あんちゃんも動く。振り返ると、玄関の内側の少し低い石の塀にすわって鳴いている。上半身を沈めるようにし、相変わらずの大きな口、そしてまぶしそうにまぶたを開閉させながら、こちらをみつめている。妻が玄関の石段につま先あがりし、やっと餌を入れた。

そのとき、玄関そばのセンサーが光った。チビがどこからか走ってきたのだ。足元をうろうろしている。歩道沿いの並木の根元に餌をおいた。チビは近寄ろうとするが、臆病者で通行人の気配を察しては離れる。私たちがこちらが近づけば逃げようとし、去るとあとをついてくる。結局、国道を渡っていつもの餌場である花盗人に誘導するほかはなさそうだ。

車の合間を見計らって、「さあ、こいよ」、と声を出して私たちは横断した。チビもついてくる。銀色の毛をまとった細身の蛇のような肢体がヘッドライトを潜り抜けた。

「きょうはドラマがあったわねえ」と妻は笑いながら帰途についた。







ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 5

5 宇宙の中のノラ07・10・10

橋の上で三毛と語る

この2,3日、あんちゃんとチビがいない。年明けから寒波が続いて、二匹は飢えと寒さで参っているのでないか、気になった。夕食でビールを飲んだ妻はだるそうにキャットフードと缶詰で餌の団子をつくった。団子は一匹あたり一個の割り当てでビニール袋にいれ、おにぎりのように固める。住民に見咎められないようにすばやくやらねばならないから、出かけるときは両手に二個、いつでも投与できる態勢でいく。

夕方すこし降った雪が路面に白く浮かんでいた。夜風で両手が凍えそうだ。ノラたちと首尾よく出会えるだろうか、今夜も住民の目を避けることができるだろうか、そんなストレスもある。ノラのえさやりは傍目でおもうほど楽でない。心身が結構疲れるものだとこのごろわかってきた。

 花盗人にさしかかると、コニファーの鉢植えの陰から今夜も三毛が出てきた。小さな軍馬のように規則正しく前足をそろえて律儀に寄ってくる。三毛は寡黙で、あんちゃんのように大仰に鳴かない。きゃ、きゃ、と小鳥のさえずりを低音で発する。雪の中をいつごろから待っていたのだろう。ごくろうさん。ほとんどえさを欠かしたことのない三毛はエゴで、ちゃっかりしているようで、あまり好きでなかったが、だんだん情が移ってくる。妻が餌をやっている間、私は花盗人から少しはなれたところで立っていた。まわりの二階の窓から人影が覗いていないか、駅からの通行人がくる気配がないか、を監視する役割もある。そして一瞬、去年の秋の月夜の晩を思い出していた。

あれは秋の終わりのころだった。三毛一家に食事を渡したあと、別の餌場にいき、帰宅途中、三毛とあんちゃんに出くわした。2匹は餌を期待してか、ついてきた。もう餌の持ち合わせはない。私たちは2匹をまこうと早足で歩いたが、やっぱりついてくる。5分ほど歩いて第二橋の前に出た。雑木林があり、人通りの少ない小さな橋だ。そこであんちゃんは引き返した。無鉄砲にみえて案外小心者なのだろうか。

だが三毛は離れない。私たちと一緒に橋を渡る。林の上に月が出ていた。夜風が沁みる。「もうおうちにお帰り」と妻が声をかけた。私たちは橋の上に立ち止まった。三毛も止まった。三毛がどんな表情をしているのかよくわからない。月明かりはおぼろだし、そばに近付くと三毛は逃げる。とても用心深い猫なのだ。1メートルあまりの距離を保ってキチンと前足をそろえて座っている。どこまでついてくるつもりだ。いじらしくなった。お前には帰るねぐらがないのか。まじめにそう考えてから、我ながらおかしくなった。ノラだから当たり前だ。木枯らし紋次郎なのだ。風に吹かれて止まったところが、その夜のねぐらなのだ。当たり前のことだが、ちょっとせつない。そうか、お前は風来坊で落ち着き先はないのだな。―――この広い宇宙の下で、ノラ猫一匹が安住できる場所はないのか。いやいや、それは逆だ。

三毛よ、狭苦しい、ちゃちなねぐらなんか必要ない。この宇宙全体がお前のすみかなのだ。さあ、お気に入りの場所を選んで、人間にいじめられないところをみつけて、どこにもぐり込んでもいいのだよ…。地球がお前のねぐらなんだ。

数日ぶりに遭遇した「チビ」と「あんちゃん」

花盗人から国道を越えて例の豪邸の門前を二度往復したが、きょうもチビとあんちゃんがいない。ひもじいだろう、だからよけい寒いがこたえるだろう。戦時中、雑草のおかゆを食べさせられた自分の少年時代を思い出しながら帰途へ。

  翌日はいつもより早めに出ることにした。チビとあんちゃんがいないのは、「私たちの餌を待ちきれなくて、あちこち餌を探し歩いているからでないのかしら」、と妻がいったからだ。国道で信号待ちをしていると、向こう側の花盗人前で三毛が国道にはみ出るようにしてこちらをみている。危ないぞ、こちらにやってきたら困る。私は左右に車が来ないのを見定めて、いこう、と叫んで走った。三毛は喜んで花盗人の庭先の緑の中の餌場へ。そのとき、庭の奥からあんちゃんが走り寄ってきた。妻が「あ、いた!」と叫ぶ。どこからかチビもきた。よかった。しばらく餌をばらまいている妻。

「きょうはきのうの分もあわせていつもの倍はずんだよ、よかったわ。あの二匹がいて」と声をはずませた。きょうも寒波と雪だが、2匹のおなかは温かいだろう。今夜はどこで眠るのだろう。帰り道、妻は「今日は足が軽いわ」とうれしそうだった。

  どんよりした雪空の寒い日が続く。

明日の晩まで太平洋側でも雪が降り続く、大阪市内でも二ミリほどの積雪が、などとテレビで聴くと、反射的にノラたちのことをおもってしまう。いつか故郷へ帰省したとき、漁協に勤める友人に「都会のノラ猫は食い物がなくてかわいそうだ」、といったら、彼はとたんにふきげんになった。ノラ猫たちが漁港をうろつき、隙を狙っている光景が浮かんだ。同席していた友人が「俺の近所では畑のイナゴやバッタを食っているらしいよ」といった。別の友人は「セミも食うらしいじゃないか」と気にもとめない。

けれど、――私の近所に畑はない、イナゴやバッタはむりだ。セミは庭で鳴くが、夏に限られる。昔はよく木製のゴミ箱を漁っている野良猫の姿があったが、いまそんなノラ猫向きのゴミ箱はない。クールなプラスチック製で、ネコではこじ開けられないし、分別されたビニール袋には猫よけの網がカバーされている。ノラたちは手も足もでないではないか。昔のマンガや映画などでは魚屋の店先にノラ猫がとびあがり、商品の魚を加えて逃走、店の人や客が追いかけてもおよばず、くやしがる風景が日常的なものとして描かれたが、いまはそれこそ荒唐無稽のマンガだ。






ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 7

7 魚つり、高山植物探しとおもえばよいのだが……気苦労なノラの餌やり


 ノラ猫の餌やりでいちばん気を遣うのは、目指す相手にきちんと出会えないことだ。そんなときはしかたないから、いつもの場所に餌を置いておく。人目につきにくい溝とか、電柱の陰とか、空き家の軒下とか。駐車している車の下はノラも安心するらしいが、しかし、万一、ノラが食っていないときはすぐに見つかってしまう。溝はみつかりにくいが、雨など降ると餌が長く汚物のように広がり、台無しだ。近所の人たちによけいな警戒心を起こさせ、新しい口実を与えてしまう。せっかく置いた餌をはたしてノラが発見してぶじに食べたかどうか、餌の残骸が露呈していないかどうか、朝早く確認せねばならない。

とにかく夜のうちにノラ本人を探しあてるのがいちばんだ。自由な山野をバードウオッチしながら散策するのは楽しいが、住宅密集地を人目を忍んでこそこそ行き来するのは神経が疲れるものだ。

私は妻を慰めようと、「ノラ探しを苦にすることはないよ。ほら、魚つりと思えばいいんだ。竿にアタリがきたら楽しいだろう。魚つりも殺生か、それならバードウオッチングとか、そうだ、珍しい高山植物を探していると思えばいいじゃないか」

花盗人にさしかかると、待ちかねていたように三毛が庭先の鉢の陰から姿をあらわした。そのあとを続くように灰色の小柄なチビが庭の奥から飛び出してきた。3日ぶりだ。いつもこいつは餌場に直行しない。まず餌にありつけたうれしさを全身で表現する。庭先の餌場をオーバーランして道の中央へ飛び出し、舞うように大きな輪を描いて走る。その儀式がすんでから餌場に向うのだ。よかった、よかった。ただ、あんちゃんだけが今夜もいない。これで4日連続の欠席だ。どこをさまよっているのかしらん。「いじめられているのでは?」という妻のことばが引っかかっていた。

しかし、その翌日、国道にさしかかったとき、妻が「あ、いる、いる。あんちゃん!」と叫んだ。対岸の花盗人で、道をはみだして私たちのほうへ飛び出そうとしている。例の絞り込むような情熱的な声と身振りをひさしぶりに見た。無鉄砲に飛び出してきては危ない。左右を確認して私たちは走って渡った。鉢の陰から三毛が出てきた。キャ、キャと断片的な独特の鳴き声だ。チビも向かいの家の前をぐるぐる回っている。一瞬、夢のような気がした。懐かしい光景。トリオの復活だ。妻は花盗人の庭先の草むらから昨夜のビニール容器を回収し、新しいのを置き、えさをやっている。少し離れて周りを監視している私。ほどなく妻がひと仕事終えたかのように誇らしげに歩いてくる。微笑みながらVサインだ。

 それから2日ほど新年会が続き、餌やりは妻がひとりでしてくれた。深夜帰宅した私は、報告を聞くのが楽しかった。3匹とも以前のように花盗人で待っていること、妻がいくと、3匹三様の表現で喜びをあらわす、あんちゃんと三毛は並んでがつがつ犬食いをし、チビは相変わらず、えさを口に含むと少し離れた場所へ飛んでいきそこで食べる。そしてまた戻ってくる、などなど。

しっかり者の三毛がずっと家を守り、世間を放浪していた2匹がやっと帰ってきたみたい、と妻が笑った。家族のような3匹を話題に私たちも穏やかで温かい気持ちだった。「3匹はいま幸福だろうね。いつまでもこんな状態が続くといいなあ」と話し合った。


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 1

1 ノラ猫たちの誕生07・10・1

張り紙合戦

出勤途中の小さな畑のそばの空き地に子猫たちがたむろするようになった。最近引っ越して、空き家になった庭先に8匹ほどの子猫が置き去りにされていたらしい。それがぞろぞろ出てきて、食べ物をねだったり、日向ぼっこをしたりしている。

先日、畑の柵に「猫に餌をやらないで。たいへん迷惑をしています」と大きな張り紙が出た。その翌日、今度は「猫を放し飼いにするほうがわるい」と丸っこい少女字体の応酬。畑の向こう側をアパートがとりかこんでいる。そこに住む若い女性たちだろうと想像した。彼女らがご飯の残りをやっているのであろう。ところで三日目、「飼い猫ではない。ノラ猫だ。餌をやるな」とダメ押しの強い警告が出た。張り紙合戦はこれで終わり。

空き地には金網が張られた。猫たちの居場所はなくなり、ごみ収集日など子猫たちはビニール袋にしがみついたり、通行人のあとをつけて運よく拾われたり、逆に蹴飛ばされたり。やがてみんないなくなった。



忘れかけていたころ、妻が「あの子猫たちの残党がいたよ」と報告にきた。畑にほど近い箕面川のほとりをうろついているという。翌朝出勤のとき、遠回りして、のぞきにいくと橋のそばの野外駐車場で3,4匹の子猫が離れ離れに風に吹かれている。ちかづくと、ものほしそうに声をあげて寄ってくる。わが家には2匹の元捨て猫がいる。出かけに猫用の缶詰をひとつ持ってきた。橋のたもとの大木の下でビニール袋をひろげておすそわけした。子猫たちは犬のようにむしゃぶり食った。「よほどおなかがすいているらしいな」と、いまおもうと他人事のように妻に話した。私のえさやりはこれ一回きりだったが、妻はその後、ひとりでほぼ隔日に夕食のあと、えさやりにでかけていたらしい。というのも、わが家の二匹はともに16歳を超える老猫で食欲がなく好き嫌いも強い。毎日残飯が出た。庭の植木に埋めているうちに飢えているノラたちが浮かんだという。

東京のおばさんと餌やりのバトンタッチ

ある夜、餌やりに出かけた妻は橋の上で初老のおばさんとすれ違った。おばさんがしゃがんでいた橋の欄干付近には薄明かりにビニールの容器にはいった餌らしいものがみえた。おばさんは猫の餌を置いてすばやく立ち去ったのだろう。

 数日後、また会った。妻が橋のたもとの木の下に餌を置いていたら、おばさんがやってきて、今度は話しかけてきた。「畜生だってひもじいのがつらいのはきっと人間と同じですよ。この近所の人は無関心だ、冷たい。ノラがやせ細っている。」おばさんは近くに実家があり、姉が老母の面倒をみている。自分は横浜に嫁いでいるが、老母の容態が悪いというのでしばらく滞在していた。すこし持ち直したので、ぼつぼつ横浜に帰らねばならない。ノラをこのままにして帰るのは心配だった。「でも、餌をやってくれる人がいるのがわかって心強い。あなた、お願いしますね」

 おばさんからバトンタッチされて、妻の餌やりは毎日になった。その話を聞いて私もときどき同行するようになった。自宅から歩いて5,6分。橋に近づくと、妻とすっかり顔なじみになったらしい猫たちはどこからともなく集まってきた。数えると7匹ほどいる。川の両岸に連なる民家や、たもとの小さな照明で、橋の上はぼんやり明るい。子猫も成猫も、白、茶、黒など体毛もさまざまだ。「残党だけでなく、あちこちのノラも合流してくるみたいやね」と妻がいう。私たちが餌場に向けて橋を渡りだすと、数匹が欄干をお互いの身体を跳躍台にして器械体操のように交代で飛び越えながらついてくる。喜びを全身で表している、なんだか感動してしまう。足元にまつわりつきながらついてくるのもいるし、離れたところを知らん顔をしてくるのもいる。

 猫の餌場は橋の途中の欄干と、たもとの木の下と、すぐそばの溝、の三箇所だ。そこに缶詰とキャットフードをまぜた、おにぎり状のえさをいくつか置いてやる。

夏の終わり。すっかり生い茂った堤防の雑草を毎年この季節に市の作業員が刈り取っていく。堤防は見晴らしがよく箕面連山を背後に緑の平原のような景色になる。夕方、橋を通ると、子猫たちが元気一杯に平原を走りまわっているのがみえる。昔、バレエでみた小人の踊りのようにかわいくて、華やかだ。 毎日、夕食後のえさやりが楽しみになったが、つかの間だった。橋のたもとにはみ出た形になっていた堤防の続きの荒地が整地され、安物の洋館建てができた。堤防の入口には金網が張られ、子猫は出入りできなくなった。

 


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 2

2 「汚い猫を子どもに近寄らせないで!!」

住民に叱られる


 ある夜、私は急ぎの仕事があり、妻が一人で餌やりにでかけた。帰ってくるなり、「叱られた」とべそをかいている。橋のたもとに近い野外ガレージの前の家から標準語の若い茶髪の女性が出てきて、「猫が車にあがって汚す。うちの子供は猫をみるとこわがる。あなた、猫がそんなに好きなら自分で飼ったら?」と強い口調でいわれた。妻は「うちも捨て猫を2匹飼っています」と反論したら「とにかく、うちの子供に汚い猫なんかみせたくない。近づけたくないで。よそでやってちょうだい!」とまくしたてられたという。

 思えばいままであまりに無防備だった。人目を意識したことがなかった。たしかにあちらにも言い分はある。猫好きな人もいるが、嫌いな人もいる。ノラをかわいそうと思う人もいるが、汚い、いやな存在、とみる人がいてもしかたない。妻は「どこにいっても猫はすんでいるじゃない。この世に生きている限り、猫をみないですごすことはできないわ。子供を猫に馴らすようにするほうがいいのに」とぶつぶついったが、近隣とのトラブルを避けるためにここでやめればいい。いったんはそう思ったのだが、翌日の夕食がすみ、いつもの時間になると、胸が重苦しくなる。待ちわびているノラたちの姿がさまざまに思い出される。

 場所を移動しよう。橋の反対側のたもとには、ノラ猫のシンパと目される古びた平屋建てがある。緑の垣根があり、そこからノラ猫が出入りするのをよくみる。犬を飼っているから野良猫たちはときにそのえさを失敬しているにちがいない、家族もそれを黙認しているのだろう。この古家から道は二つに分かれる。まっすぐ坂を山の方へあがると、車の往来がそれなりに多い国道へ。国道の向こうにわが家がある。

一方、古家を左折するとこじんまりした庭を構えた民家が並び、途中に幼稚園がある。その先は川沿いの道が少し続き、別の橋にぶつかる。住宅街ではあるが、人通りはほとんどなく、照明も少ない。ひっそりしている。ノラ猫たちへの餌やりの拠点を橋のこちら側に移そう。平屋建てを中心に、どうもノラ猫に優しそうな雰囲気がある。

翌日、私たちがいくと、猫が集まってきて、橋の向こうの餌場へ走りだす。私たちは橋の手前で立ち止まり、2,3度左右をみる、猫たちに合図のつもりだ。それからゆっくりユーターン。すぐに引き返してくる猫、けげんそうに振り向いたままの猫、しかし、三々五々、みんなこちらに移ってくる。古家から国道に通じる坂道の両側は高い壁になっていて足元に溝が沿っている。通行人はともかく近所の家からはみつかりにくそうだ。溝へ餌を分散して置くと、猫たちは殺到した。



ノラ猫の常連メンバー5匹




食べるのをみながら妻がおもな顔触れを愛称つきで紹介してくれる。

「三毛」――仲間が近づくと、ウー、と小さな唸り声を出してけん制する若者猫。毛色をそのままニックネームにつけた。はじめは意地悪そうで、好感が持てなかったが、あとあともっとも印象深いノラとなった。

「尻尾」。または「潜水艦」――めったに路上に姿を現さない。溝を移動し、人目に隠れて陰でしっかり食っている陰気で大柄な初老猫。尻尾がない。

「あんちゃん」――焼け付くような声を絞り出して走ってくるキジトラ。がっしりした体格で、腕力の強い粗暴な感じだが明るく、案外ヒトがよさそう。

「人鳴き猫」――あんちゃんそっくりだが痩せている。仲間と一緒に餌を食べようとせずなぜか単独で妻にくっついてくる。孤独で人懐っこくよく鳴く。

「チビ」――まだ初々しい子猫。妻がいくと喜んで大きな輪を描いてぐるぐる回るが、先輩に脅かされ、なかなか餌に近づけない。ロシアンブルーのまがいもの。

通勤の足が途絶える夜十時半ごろを見計らって私たちはでかけた。猫たちは待ちかねたように坂道の溝に集まってくる。毎日が楽しかった。

昼間、駅に向っていたことがある。私のちょっと先を歩いていた中年の主婦が例の古家前にさしかかると、なかからノラたちが数匹でてきて、主婦の足元にまつわりついた。主婦は左右をちらっとみて、さっとバッグのなかからキャットフードを取り出し、橋のたもとに置いて、素知らぬふりをして歩き出した。ノラたちは餌に群がった。私は主婦に追いつき、さりげなく話しかけた。

「猫、よろこんでましたね」。

主婦は疑わしそうな表情で、「ええ、まあ」とあいまいに答えた。私を警戒している様子がありありとみえる。

「腹をすかしているんでしょうね。猫を飼うからには、あの家の人も責任もって飼わないと」と私はいった。主婦におもねる気持ちはなく、本心からそうおもったのだ。主婦はだんだん私が敵でないことが分かったらしく「家の人もご苦労なさっているとおもいますよ。近所の手前がありますからね」と本音らしきことをいった。家人と知り合いなのかもしれない。

古家の垣根にマジックの張り紙が出されたのはそれからまもなくだった。「私の家ではネコは飼っていません。のらネコがどこからかやってきました。えさをやらないでください」とあった。近所の人に責められて書かされたアリバイ証明のようにおもわれた。このあたりも安全圏ではないのだ。




ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 3
 3 餌場を移動07・10・5

三毛はコニファーの陰からーーー第一の餌場は「花盗人」

 高い壁に沿った溝のなかで合同で餌に群がっていたノラたちがいつしか2グループに再編された。
 1グループは坂道をあがりきった国道沿いの古びた民家の庭先。小さな平屋だが、庭いっぱいに花と緑があふれ、玄関前には植木鉢がいくつも並んでいる。初老の神経質そうなおばさんが水遣りをしているのをよくみかけた。花が自慢なのであろう、「花を盗らないでください」というプレートが垣根にも植木鉢にも数ヶ所につるしている。なんだか不快だった。近所の人にしろ、通行人にしろ、花をわざわざ盗む人なんかいるようにはみえなかった。そんなに花が気になるなら、こっそり隠しておけばいいじゃないか、とおもった。人にみてもらいたいから花を咲かせているくせに。家の主にも言い分はあるだろうが、私はこの神経質そうな花咲かせおばさんに「花盗人」とあだ名をつけて、うっぷんをはらした。

 三毛は黄緑のコニファーの植わった鉢の陰に隠れていて、私たちがいくと、軍馬のような律儀な足取りで出てきた。交互に機械的に動く前足がかわいかった。毎日定刻に必ず待っていた。溝にいたころは憎たらしかったが、しだいに情が移っていくのが自分でも分かった。妻は三毛のために庭先の緑の茂みのなかの敷石に餌を置いた。そこへいつしか加わってきたのが、あんちゃんとチビだ。あんちゃんは大胆で神出鬼没だった。向かいの家の屋根の上から、隣家の塀の上から、焼けつくように鳴きながら寄ってきた。国道の向こう側から飛び込んでくることもあった。どういうわけか、あんちゃんにはチビがまつわりついていることが多かった。腕白者と小心者の組み合わせはおもしろかった。三毛は相変わらず単独で律儀で、雨の日も花盗人の玄関先にいた。三毛がまっさきに登場し、それをみてあわててあんちゃんが駆けつける、気がつくと、どこからともなくチビが紛れ込んでいる、そんなあんばいだった。

 妻はまわりを警戒しながら、庭先に三匹分の餌を小分けして並べた。花盗人の家は平屋だが、向かいの家並みは二階建てだ。窓がいくつもある。左右、上下、どこから人間が覗いているかわからない。神経が疲れる。大丈夫なのをみきわめてから、さっと餌を置く。その間、三毛は少し離れたところで立ち止まっている。クールで、喜びを表さない。妻が餌をおいて離れると、おもむろに足を運ぶ。

 大声で鳴き叫ぶ「あんちゃん」、輪を描いて喜ぶ「チビ」

 あんちゃんは、妻の付近をあちこち動きながら、大声で鳴き続ける。人目を気にする私たちにとっていちばん都合の悪い猫だ。チビはうれしくてたまらないというように、大きく輪を描いてわれわれの周りを走り回る。そのくせ、三毛とあんちゃんはがつがつと犬食いで食べ続けるのに、臆病なチビは一口餌をかぶりつくと、どこかへ逃げていく。食べ終わると戻ってきて、また一口くわえて…、という具合だ。私たちや2匹の先輩のそばでは餌を食えないのだ。これまでよほどいじめられてきたのだろうか。

 三毛は安心だけど、あんちゃんとチビは心配だと妻はいう。あんちゃんは車の行き来する国道の向こう側へしょっちゅう出かける。チビは、餌をやる間、大きな円周運動をするが、国道から車がはいってくると轢かれるのでないか。
 心配をよそに平穏な餌やりの日がつづいた。チビも相変わらず演舞のパフォーマンスはするが、だんだん慣れてきて三匹がそれぞれの位置を保ちながら落ち着いて食べている様子だ。餌は妻が通行人のいないのを確かめて緑の茂みの中へ適当に分散する。せいぜい1分たらずだろうが、その間、私は近所の人の気配を厳重警戒せねばならない。いちばん、せつない、つらい緊張の一瞬だ。とくに向かい側の家はゆだんならない。ふだんは人の気配がなくつい無視しがちだが、この間は、いつの間にか二階の窓に灯がついていて、若い女性が見下ろしていた。私たちがノラたちと出会い、餌場を確保し、私がきょろきょろ周りを監視している一部始終をずっと見物されていたのかもしれない。冷や汗が出た。それからは真っ先にこの窓辺を注意することにした。隣家は、ステテコ姿のおじいさんが愛玩用の子犬を抱いてふいに出てくることがあるが、それまでに犬が鳴くし、ドアをあける間があるから、こちらもとりつくろいの余裕がある。

 三匹はそれぞれ個性的で、たのしかった。花盗人前にいくと、鉢の陰から確実に三毛は出てきた。遅れてあんちゃんが大鳴きしながらかけつける。気がつくとチビもきている。茂みの中で並んで食べている三匹が家族のようにみえてきた。この家族には、親はいない。三匹はそろって親や飼い主に捨てられ、この世に保護者はだれもいない。幼いながら自分たちだけで力を合わせて生き抜いていかねばならないのだ。三毛はエプロンがけのしっかり者の長女役だ。弟たちのために働いて食料をまず確保している。あんちゃんは根は善良なのだが、怠け者できまぐれ。働きに出ても長続きせず、ふらふらしている。末っ子のチビはなにかと口うるさい姉ちゃんが苦手で、あんちゃんといるほうが楽しい。付きまとっている。そんな雰囲気だ。
 このときも三毛だけだった。少し待ったが、二匹はやってこない。第2グループを先にまわることにした。






ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 4

 4 餌より人間が好き?「人鳴き猫」10・8

第二の餌場は古家――石垣ーー幼稚園

花盗人の先10メートルほどはいったところに例の野良シンパの古家がある。老夫婦と犬が暮らしており、垣根からよくノラ猫たちが出入りする。ここを通ると、たいてい尻尾や人鳴き猫(人懐っこい鳴き猫の略称)に出くわす。古家の斜め前に小さな二階家があり、一階部分がまるごとコンクリート床でガレージや物置になっている。車が戻ってくるのが遅いのか、たいていシャッターがあがっている。人鳴き猫は私たちの足音を聞くとときどきこのガレージから飛び出してきた。この家の飼い猫かとおもったこともあるが、そうでもないらしい。ガレージをのぞいていると、後ろのほうから「ウエー、ウエー」とけたたましい声をあげて人鳴き猫の登場だ。頭をこすりつけるしぐさはどの猫にも共通する媚のポーズのようだが、人鳴き猫はそれが極端だ。後ろ足を爪立ちして腰を思い切り高く持ち上げ、揺すりながら頭を地面にこすりつける。つい女体を想像してしまう。「いやらしいわね」、と妻は顔をそむけるが、じつに人懐っこい猫で、橋のたもとの木の下で餌をやっていたころ、こいつだけは餌の輪にはいろうとせず、妻の後をずっとついてきた。橋の上で出会った横浜のおばさんが、「てのひらに載せた餌を食べるノラが一匹います。身体も触らせる。飼われていたのが途中で捨てられたのでないかな。猫とりが心配…」といっていたけど、それは人鳴き猫に違いないと妻はいう。

ノラ猫たちは餌をやりにいくと親しそうに走ってくるが、警戒心が強く、一定以上には近づかないし、手ずからの餌をたべることはない。一回りはなれたところで「そこに置いてくれ」というように鳴くだけだ。身体を触ろうとしても素早く逃げられる。一度も成功したためしがない。

「この猫は餌より人間といるのが好きみたい。」と妻はよくいうが、餌場が橋のたもとから古家周辺にかわっても、人鳴き猫にはそのくせが残っている。古家の垣根、溝の中、空き家の玄関の脇、路肩のマンホール、どこに餌をおいてもちょっと鼻先を寄せるだけでこちらについてくることがある。「餌やりの時刻に姿を見せるのだから、餌がほしいんだ。人に見られながら食べるのがいやなんだ。とにかく置いといてやれ。あとでこっそり食べにくるよ」と私は言った。



いま、人鳴き猫は玄関脇に置いた餌に立ち止まっている。気がかわらないうちにそっと私たちは立ち去った。つぎのお客さんは「尻尾」だ。

古家の隣は垣根の前にいつもオートバイをとめている家、その隣は和風の門構え、空き家などこじんまりした家並みが続く。それがとぎれると、石垣に囲まれた高台の空き地、小学校と続く。歩いて5,6分の行程だが、「尻尾」に出会わない。尻尾をみつけるのは一苦労だ。鳴かないうえにほとんど路上に姿をみせない。溝から溝へ隠れて私たちのあとをついてくる。私はこれまで一度も彼の所在を察知したことはなく、いつも妻がみつける。なんだかそんな気がして振り返ると、尻尾の目が溝の中で光っているのだそうだ。食い物を運んできてもらっているのに、無愛想で声もあげず、闇の底をこそこそ動くこの陰気で厚かましい猫が私は嫌いだ。妻も同感だというが、家をでるとき、やっぱり少なめだが餌を準備してくる。「だって、いつもいるんだもの。気になる」

みつからないときはもう一度古家方面へ引き返す。往復する間にはまず妻の視野に尻尾ははいる。それでもいないときは、古家の垣根の下に餌をもぐりこませる。餌はさっきいったように、缶詰とキャットフードをまぜておにぎりにしている。翌日いくときれいになくなっている。

この夜は往復してもとうとう尻尾を確認できず、妻は「いつもより時間が遅かったので餌を探しに遠出したのかなあ」と残念そうに餌を垣根にしのばせた。

古家から花盗人へ戻る。コニファーの鉢にももう三毛の姿はない。「おなかいっぱいになって安心してねぐらに帰ったのね」と妻がいった。でも、あとの2匹、あんちゃんとチビはどこにいったのだ。しばらく付近を歩いたが今夜は諦めることにした。



国道を渡って豪邸の上で身をよじらせるあんちゃん




わが家へ帰ろうと国道を渡っていたら、ニェーン、ニェーン、焼けつくようなあんちゃんの絶叫が聞こえてくる。どうやら国道の反対側らしい。あわてて横断した後、私は国道沿いにあんちゃんを探した。豪邸が5,6軒ずらりと並んでいる。

そのうちの一軒の大きな高い石垣の門の上から、身悶えして鳴いているあんちゃんがヘッドライトに浮かんだ。門前にきたが、邸内は大きな樹木が何本もそびえる緑深い庭で家人にみつかる心配はない。駅からの人通りは絶えないが、私たちに関心はなさそうだ。ただ、あんちゃんは鳴くばかりで地上に降りてこない。門の高さは2メートル以上はある。餌を届けるにはあまりに高すぎる。私たちもうろうろするばかり。玄関の格子状のドアは下部は板でおおわれて、ネコも出入りできない。塀が低くなっているところまで誘導することにした。

私たちは玄関前から少し歩いた。あんちゃんも動く。振り返ると、玄関の内側の少し低い石の塀にすわって鳴いている。上半身を沈めるようにし、相変わらずの大きな口、そしてまぶしそうにまぶたを開閉させながら、こちらをみつめている。妻が玄関の石段につま先あがりし、やっと餌を入れた。

そのとき、玄関そばのセンサーが光った。チビがどこからか走ってきたのだ。足元をうろうろしている。歩道沿いの並木の根元に餌をおいた。チビは近寄ろうとするが、臆病者で通行人の気配を察しては離れる。私たちがこちらが近づけば逃げようとし、去るとあとをついてくる。結局、国道を渡っていつもの餌場である花盗人に誘導するほかはなさそうだ。

車の合間を見計らって、「さあ、こいよ」、と声を出して私たちは横断した。チビもついてくる。銀色の毛をまとった細身の蛇のような肢体がヘッドライトを潜り抜けた。

「きょうはドラマがあったわねえ」と妻は笑いながら帰途についた。







ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 5

5 宇宙の中のノラ07・10・10

橋の上で三毛と語る

この2,3日、あんちゃんとチビがいない。年明けから寒波が続いて、二匹は飢えと寒さで参っているのでないか、気になった。夕食でビールを飲んだ妻はだるそうにキャットフードと缶詰で餌の団子をつくった。団子は一匹あたり一個の割り当てでビニール袋にいれ、おにぎりのように固める。住民に見咎められないようにすばやくやらねばならないから、出かけるときは両手に二個、いつでも投与できる態勢でいく。

夕方すこし降った雪が路面に白く浮かんでいた。夜風で両手が凍えそうだ。ノラたちと首尾よく出会えるだろうか、今夜も住民の目を避けることができるだろうか、そんなストレスもある。ノラのえさやりは傍目でおもうほど楽でない。心身が結構疲れるものだとこのごろわかってきた。

 花盗人にさしかかると、コニファーの鉢植えの陰から今夜も三毛が出てきた。小さな軍馬のように規則正しく前足をそろえて律儀に寄ってくる。三毛は寡黙で、あんちゃんのように大仰に鳴かない。きゃ、きゃ、と小鳥のさえずりを低音で発する。雪の中をいつごろから待っていたのだろう。ごくろうさん。ほとんどえさを欠かしたことのない三毛はエゴで、ちゃっかりしているようで、あまり好きでなかったが、だんだん情が移ってくる。妻が餌をやっている間、私は花盗人から少しはなれたところで立っていた。まわりの二階の窓から人影が覗いていないか、駅からの通行人がくる気配がないか、を監視する役割もある。そして一瞬、去年の秋の月夜の晩を思い出していた。

あれは秋の終わりのころだった。三毛一家に食事を渡したあと、別の餌場にいき、帰宅途中、三毛とあんちゃんに出くわした。2匹は餌を期待してか、ついてきた。もう餌の持ち合わせはない。私たちは2匹をまこうと早足で歩いたが、やっぱりついてくる。5分ほど歩いて第二橋の前に出た。雑木林があり、人通りの少ない小さな橋だ。そこであんちゃんは引き返した。無鉄砲にみえて案外小心者なのだろうか。

だが三毛は離れない。私たちと一緒に橋を渡る。林の上に月が出ていた。夜風が沁みる。「もうおうちにお帰り」と妻が声をかけた。私たちは橋の上に立ち止まった。三毛も止まった。三毛がどんな表情をしているのかよくわからない。月明かりはおぼろだし、そばに近付くと三毛は逃げる。とても用心深い猫なのだ。1メートルあまりの距離を保ってキチンと前足をそろえて座っている。どこまでついてくるつもりだ。いじらしくなった。お前には帰るねぐらがないのか。まじめにそう考えてから、我ながらおかしくなった。ノラだから当たり前だ。木枯らし紋次郎なのだ。風に吹かれて止まったところが、その夜のねぐらなのだ。当たり前のことだが、ちょっとせつない。そうか、お前は風来坊で落ち着き先はないのだな。―――この広い宇宙の下で、ノラ猫一匹が安住できる場所はないのか。いやいや、それは逆だ。

三毛よ、狭苦しい、ちゃちなねぐらなんか必要ない。この宇宙全体がお前のすみかなのだ。さあ、お気に入りの場所を選んで、人間にいじめられないところをみつけて、どこにもぐり込んでもいいのだよ…。地球がお前のねぐらなんだ。

数日ぶりに遭遇した「チビ」と「あんちゃん」

花盗人から国道を越えて例の豪邸の門前を二度往復したが、きょうもチビとあんちゃんがいない。ひもじいだろう、だからよけい寒いがこたえるだろう。戦時中、雑草のおかゆを食べさせられた自分の少年時代を思い出しながら帰途へ。

  翌日はいつもより早めに出ることにした。チビとあんちゃんがいないのは、「私たちの餌を待ちきれなくて、あちこち餌を探し歩いているからでないのかしら」、と妻がいったからだ。国道で信号待ちをしていると、向こう側の花盗人前で三毛が国道にはみ出るようにしてこちらをみている。危ないぞ、こちらにやってきたら困る。私は左右に車が来ないのを見定めて、いこう、と叫んで走った。三毛は喜んで花盗人の庭先の緑の中の餌場へ。そのとき、庭の奥からあんちゃんが走り寄ってきた。妻が「あ、いた!」と叫ぶ。どこからかチビもきた。よかった。しばらく餌をばらまいている妻。

「きょうはきのうの分もあわせていつもの倍はずんだよ、よかったわ。あの二匹がいて」と声をはずませた。きょうも寒波と雪だが、2匹のおなかは温かいだろう。今夜はどこで眠るのだろう。帰り道、妻は「今日は足が軽いわ」とうれしそうだった。

  どんよりした雪空の寒い日が続く。

明日の晩まで太平洋側でも雪が降り続く、大阪市内でも二ミリほどの積雪が、などとテレビで聴くと、反射的にノラたちのことをおもってしまう。いつか故郷へ帰省したとき、漁協に勤める友人に「都会のノラ猫は食い物がなくてかわいそうだ」、といったら、彼はとたんにふきげんになった。ノラ猫たちが漁港をうろつき、隙を狙っている光景が浮かんだ。同席していた友人が「俺の近所では畑のイナゴやバッタを食っているらしいよ」といった。別の友人は「セミも食うらしいじゃないか」と気にもとめない。

けれど、――私の近所に畑はない、イナゴやバッタはむりだ。セミは庭で鳴くが、夏に限られる。昔はよく木製のゴミ箱を漁っている野良猫の姿があったが、いまそんなノラ猫向きのゴミ箱はない。クールなプラスチック製で、ネコではこじ開けられないし、分別されたビニール袋には猫よけの網がカバーされている。ノラたちは手も足もでないではないか。昔のマンガや映画などでは魚屋の店先にノラ猫がとびあがり、商品の魚を加えて逃走、店の人や客が追いかけてもおよばず、くやしがる風景が日常的なものとして描かれたが、いまはそれこそ荒唐無稽のマンガだ。






ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 7

7 魚つり、高山植物探しとおもえばよいのだが……気苦労なノラの餌やり


 ノラ猫の餌やりでいちばん気を遣うのは、目指す相手にきちんと出会えないことだ。そんなときはしかたないから、いつもの場所に餌を置いておく。人目につきにくい溝とか、電柱の陰とか、空き家の軒下とか。駐車している車の下はノラも安心するらしいが、しかし、万一、ノラが食っていないときはすぐに見つかってしまう。溝はみつかりにくいが、雨など降ると餌が長く汚物のように広がり、台無しだ。近所の人たちによけいな警戒心を起こさせ、新しい口実を与えてしまう。せっかく置いた餌をはたしてノラが発見してぶじに食べたかどうか、餌の残骸が露呈していないかどうか、朝早く確認せねばならない。

とにかく夜のうちにノラ本人を探しあてるのがいちばんだ。自由な山野をバードウオッチしながら散策するのは楽しいが、住宅密集地を人目を忍んでこそこそ行き来するのは神経が疲れるものだ。

私は妻を慰めようと、「ノラ探しを苦にすることはないよ。ほら、魚つりと思えばいいんだ。竿にアタリがきたら楽しいだろう。魚つりも殺生か、それならバードウオッチングとか、そうだ、珍しい高山植物を探していると思えばいいじゃないか」

花盗人にさしかかると、待ちかねていたように三毛が庭先の鉢の陰から姿をあらわした。そのあとを続くように灰色の小柄なチビが庭の奥から飛び出してきた。3日ぶりだ。いつもこいつは餌場に直行しない。まず餌にありつけたうれしさを全身で表現する。庭先の餌場をオーバーランして道の中央へ飛び出し、舞うように大きな輪を描いて走る。その儀式がすんでから餌場に向うのだ。よかった、よかった。ただ、あんちゃんだけが今夜もいない。これで4日連続の欠席だ。どこをさまよっているのかしらん。「いじめられているのでは?」という妻のことばが引っかかっていた。

しかし、その翌日、国道にさしかかったとき、妻が「あ、いる、いる。あんちゃん!」と叫んだ。対岸の花盗人で、道をはみだして私たちのほうへ飛び出そうとしている。例の絞り込むような情熱的な声と身振りをひさしぶりに見た。無鉄砲に飛び出してきては危ない。左右を確認して私たちは走って渡った。鉢の陰から三毛が出てきた。キャ、キャと断片的な独特の鳴き声だ。チビも向かいの家の前をぐるぐる回っている。一瞬、夢のような気がした。懐かしい光景。トリオの復活だ。妻は花盗人の庭先の草むらから昨夜のビニール容器を回収し、新しいのを置き、えさをやっている。少し離れて周りを監視している私。ほどなく妻がひと仕事終えたかのように誇らしげに歩いてくる。微笑みながらVサインだ。

 それから2日ほど新年会が続き、餌やりは妻がひとりでしてくれた。深夜帰宅した私は、報告を聞くのが楽しかった。3匹とも以前のように花盗人で待っていること、妻がいくと、3匹三様の表現で喜びをあらわす、あんちゃんと三毛は並んでがつがつ犬食いをし、チビは相変わらず、えさを口に含むと少し離れた場所へ飛んでいきそこで食べる。そしてまた戻ってくる、などなど。

しっかり者の三毛がずっと家を守り、世間を放浪していた2匹がやっと帰ってきたみたい、と妻が笑った。家族のような3匹を話題に私たちも穏やかで温かい気持ちだった。「3匹はいま幸福だろうね。いつまでもこんな状態が続くといいなあ」と話し合った。


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 1

1 ノラ猫たちの誕生07・10・1

張り紙合戦

出勤途中の小さな畑のそばの空き地に子猫たちがたむろするようになった。最近引っ越して、空き家になった庭先に8匹ほどの子猫が置き去りにされていたらしい。それがぞろぞろ出てきて、食べ物をねだったり、日向ぼっこをしたりしている。

先日、畑の柵に「猫に餌をやらないで。たいへん迷惑をしています」と大きな張り紙が出た。その翌日、今度は「猫を放し飼いにするほうがわるい」と丸っこい少女字体の応酬。畑の向こう側をアパートがとりかこんでいる。そこに住む若い女性たちだろうと想像した。彼女らがご飯の残りをやっているのであろう。ところで三日目、「飼い猫ではない。ノラ猫だ。餌をやるな」とダメ押しの強い警告が出た。張り紙合戦はこれで終わり。

空き地には金網が張られた。猫たちの居場所はなくなり、ごみ収集日など子猫たちはビニール袋にしがみついたり、通行人のあとをつけて運よく拾われたり、逆に蹴飛ばされたり。やがてみんないなくなった。



忘れかけていたころ、妻が「あの子猫たちの残党がいたよ」と報告にきた。畑にほど近い箕面川のほとりをうろついているという。翌朝出勤のとき、遠回りして、のぞきにいくと橋のそばの野外駐車場で3,4匹の子猫が離れ離れに風に吹かれている。ちかづくと、ものほしそうに声をあげて寄ってくる。わが家には2匹の元捨て猫がいる。出かけに猫用の缶詰をひとつ持ってきた。橋のたもとの大木の下でビニール袋をひろげておすそわけした。子猫たちは犬のようにむしゃぶり食った。「よほどおなかがすいているらしいな」と、いまおもうと他人事のように妻に話した。私のえさやりはこれ一回きりだったが、妻はその後、ひとりでほぼ隔日に夕食のあと、えさやりにでかけていたらしい。というのも、わが家の二匹はともに16歳を超える老猫で食欲がなく好き嫌いも強い。毎日残飯が出た。庭の植木に埋めているうちに飢えているノラたちが浮かんだという。

東京のおばさんと餌やりのバトンタッチ

ある夜、餌やりに出かけた妻は橋の上で初老のおばさんとすれ違った。おばさんがしゃがんでいた橋の欄干付近には薄明かりにビニールの容器にはいった餌らしいものがみえた。おばさんは猫の餌を置いてすばやく立ち去ったのだろう。

 数日後、また会った。妻が橋のたもとの木の下に餌を置いていたら、おばさんがやってきて、今度は話しかけてきた。「畜生だってひもじいのがつらいのはきっと人間と同じですよ。この近所の人は無関心だ、冷たい。ノラがやせ細っている。」おばさんは近くに実家があり、姉が老母の面倒をみている。自分は横浜に嫁いでいるが、老母の容態が悪いというのでしばらく滞在していた。すこし持ち直したので、ぼつぼつ横浜に帰らねばならない。ノラをこのままにして帰るのは心配だった。「でも、餌をやってくれる人がいるのがわかって心強い。あなた、お願いしますね」

 おばさんからバトンタッチされて、妻の餌やりは毎日になった。その話を聞いて私もときどき同行するようになった。自宅から歩いて5,6分。橋に近づくと、妻とすっかり顔なじみになったらしい猫たちはどこからともなく集まってきた。数えると7匹ほどいる。川の両岸に連なる民家や、たもとの小さな照明で、橋の上はぼんやり明るい。子猫も成猫も、白、茶、黒など体毛もさまざまだ。「残党だけでなく、あちこちのノラも合流してくるみたいやね」と妻がいう。私たちが餌場に向けて橋を渡りだすと、数匹が欄干をお互いの身体を跳躍台にして器械体操のように交代で飛び越えながらついてくる。喜びを全身で表している、なんだか感動してしまう。足元にまつわりつきながらついてくるのもいるし、離れたところを知らん顔をしてくるのもいる。

 猫の餌場は橋の途中の欄干と、たもとの木の下と、すぐそばの溝、の三箇所だ。そこに缶詰とキャットフードをまぜた、おにぎり状のえさをいくつか置いてやる。

夏の終わり。すっかり生い茂った堤防の雑草を毎年この季節に市の作業員が刈り取っていく。堤防は見晴らしがよく箕面連山を背後に緑の平原のような景色になる。夕方、橋を通ると、子猫たちが元気一杯に平原を走りまわっているのがみえる。昔、バレエでみた小人の踊りのようにかわいくて、華やかだ。 毎日、夕食後のえさやりが楽しみになったが、つかの間だった。橋のたもとにはみ出た形になっていた堤防の続きの荒地が整地され、安物の洋館建てができた。堤防の入口には金網が張られ、子猫は出入りできなくなった。

 


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 2

2 「汚い猫を子どもに近寄らせないで!!」

住民に叱られる


 ある夜、私は急ぎの仕事があり、妻が一人で餌やりにでかけた。帰ってくるなり、「叱られた」とべそをかいている。橋のたもとに近い野外ガレージの前の家から標準語の若い茶髪の女性が出てきて、「猫が車にあがって汚す。うちの子供は猫をみるとこわがる。あなた、猫がそんなに好きなら自分で飼ったら?」と強い口調でいわれた。妻は「うちも捨て猫を2匹飼っています」と反論したら「とにかく、うちの子供に汚い猫なんかみせたくない。近づけたくないで。よそでやってちょうだい!」とまくしたてられたという。

 思えばいままであまりに無防備だった。人目を意識したことがなかった。たしかにあちらにも言い分はある。猫好きな人もいるが、嫌いな人もいる。ノラをかわいそうと思う人もいるが、汚い、いやな存在、とみる人がいてもしかたない。妻は「どこにいっても猫はすんでいるじゃない。この世に生きている限り、猫をみないですごすことはできないわ。子供を猫に馴らすようにするほうがいいのに」とぶつぶついったが、近隣とのトラブルを避けるためにここでやめればいい。いったんはそう思ったのだが、翌日の夕食がすみ、いつもの時間になると、胸が重苦しくなる。待ちわびているノラたちの姿がさまざまに思い出される。

 場所を移動しよう。橋の反対側のたもとには、ノラ猫のシンパと目される古びた平屋建てがある。緑の垣根があり、そこからノラ猫が出入りするのをよくみる。犬を飼っているから野良猫たちはときにそのえさを失敬しているにちがいない、家族もそれを黙認しているのだろう。この古家から道は二つに分かれる。まっすぐ坂を山の方へあがると、車の往来がそれなりに多い国道へ。国道の向こうにわが家がある。

一方、古家を左折するとこじんまりした庭を構えた民家が並び、途中に幼稚園がある。その先は川沿いの道が少し続き、別の橋にぶつかる。住宅街ではあるが、人通りはほとんどなく、照明も少ない。ひっそりしている。ノラ猫たちへの餌やりの拠点を橋のこちら側に移そう。平屋建てを中心に、どうもノラ猫に優しそうな雰囲気がある。

翌日、私たちがいくと、猫が集まってきて、橋の向こうの餌場へ走りだす。私たちは橋の手前で立ち止まり、2,3度左右をみる、猫たちに合図のつもりだ。それからゆっくりユーターン。すぐに引き返してくる猫、けげんそうに振り向いたままの猫、しかし、三々五々、みんなこちらに移ってくる。古家から国道に通じる坂道の両側は高い壁になっていて足元に溝が沿っている。通行人はともかく近所の家からはみつかりにくそうだ。溝へ餌を分散して置くと、猫たちは殺到した。



ノラ猫の常連メンバー5匹




食べるのをみながら妻がおもな顔触れを愛称つきで紹介してくれる。

「三毛」――仲間が近づくと、ウー、と小さな唸り声を出してけん制する若者猫。毛色をそのままニックネームにつけた。はじめは意地悪そうで、好感が持てなかったが、あとあともっとも印象深いノラとなった。

「尻尾」。または「潜水艦」――めったに路上に姿を現さない。溝を移動し、人目に隠れて陰でしっかり食っている陰気で大柄な初老猫。尻尾がない。

「あんちゃん」――焼け付くような声を絞り出して走ってくるキジトラ。がっしりした体格で、腕力の強い粗暴な感じだが明るく、案外ヒトがよさそう。

「人鳴き猫」――あんちゃんそっくりだが痩せている。仲間と一緒に餌を食べようとせずなぜか単独で妻にくっついてくる。孤独で人懐っこくよく鳴く。

「チビ」――まだ初々しい子猫。妻がいくと喜んで大きな輪を描いてぐるぐる回るが、先輩に脅かされ、なかなか餌に近づけない。ロシアンブルーのまがいもの。

通勤の足が途絶える夜十時半ごろを見計らって私たちはでかけた。猫たちは待ちかねたように坂道の溝に集まってくる。毎日が楽しかった。

昼間、駅に向っていたことがある。私のちょっと先を歩いていた中年の主婦が例の古家前にさしかかると、なかからノラたちが数匹でてきて、主婦の足元にまつわりついた。主婦は左右をちらっとみて、さっとバッグのなかからキャットフードを取り出し、橋のたもとに置いて、素知らぬふりをして歩き出した。ノラたちは餌に群がった。私は主婦に追いつき、さりげなく話しかけた。

「猫、よろこんでましたね」。

主婦は疑わしそうな表情で、「ええ、まあ」とあいまいに答えた。私を警戒している様子がありありとみえる。

「腹をすかしているんでしょうね。猫を飼うからには、あの家の人も責任もって飼わないと」と私はいった。主婦におもねる気持ちはなく、本心からそうおもったのだ。主婦はだんだん私が敵でないことが分かったらしく「家の人もご苦労なさっているとおもいますよ。近所の手前がありますからね」と本音らしきことをいった。家人と知り合いなのかもしれない。

古家の垣根にマジックの張り紙が出されたのはそれからまもなくだった。「私の家ではネコは飼っていません。のらネコがどこからかやってきました。えさをやらないでください」とあった。近所の人に責められて書かされたアリバイ証明のようにおもわれた。このあたりも安全圏ではないのだ。




ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 3
 3 餌場を移動07・10・5

三毛はコニファーの陰からーーー第一の餌場は「花盗人」

 高い壁に沿った溝のなかで合同で餌に群がっていたノラたちがいつしか2グループに再編された。
 1グループは坂道をあがりきった国道沿いの古びた民家の庭先。小さな平屋だが、庭いっぱいに花と緑があふれ、玄関前には植木鉢がいくつも並んでいる。初老の神経質そうなおばさんが水遣りをしているのをよくみかけた。花が自慢なのであろう、「花を盗らないでください」というプレートが垣根にも植木鉢にも数ヶ所につるしている。なんだか不快だった。近所の人にしろ、通行人にしろ、花をわざわざ盗む人なんかいるようにはみえなかった。そんなに花が気になるなら、こっそり隠しておけばいいじゃないか、とおもった。人にみてもらいたいから花を咲かせているくせに。家の主にも言い分はあるだろうが、私はこの神経質そうな花咲かせおばさんに「花盗人」とあだ名をつけて、うっぷんをはらした。

 三毛は黄緑のコニファーの植わった鉢の陰に隠れていて、私たちがいくと、軍馬のような律儀な足取りで出てきた。交互に機械的に動く前足がかわいかった。毎日定刻に必ず待っていた。溝にいたころは憎たらしかったが、しだいに情が移っていくのが自分でも分かった。妻は三毛のために庭先の緑の茂みのなかの敷石に餌を置いた。そこへいつしか加わってきたのが、あんちゃんとチビだ。あんちゃんは大胆で神出鬼没だった。向かいの家の屋根の上から、隣家の塀の上から、焼けつくように鳴きながら寄ってきた。国道の向こう側から飛び込んでくることもあった。どういうわけか、あんちゃんにはチビがまつわりついていることが多かった。腕白者と小心者の組み合わせはおもしろかった。三毛は相変わらず単独で律儀で、雨の日も花盗人の玄関先にいた。三毛がまっさきに登場し、それをみてあわててあんちゃんが駆けつける、気がつくと、どこからともなくチビが紛れ込んでいる、そんなあんばいだった。

 妻はまわりを警戒しながら、庭先に三匹分の餌を小分けして並べた。花盗人の家は平屋だが、向かいの家並みは二階建てだ。窓がいくつもある。左右、上下、どこから人間が覗いているかわからない。神経が疲れる。大丈夫なのをみきわめてから、さっと餌を置く。その間、三毛は少し離れたところで立ち止まっている。クールで、喜びを表さない。妻が餌をおいて離れると、おもむろに足を運ぶ。

 大声で鳴き叫ぶ「あんちゃん」、輪を描いて喜ぶ「チビ」

 あんちゃんは、妻の付近をあちこち動きながら、大声で鳴き続ける。人目を気にする私たちにとっていちばん都合の悪い猫だ。チビはうれしくてたまらないというように、大きく輪を描いてわれわれの周りを走り回る。そのくせ、三毛とあんちゃんはがつがつと犬食いで食べ続けるのに、臆病なチビは一口餌をかぶりつくと、どこかへ逃げていく。食べ終わると戻ってきて、また一口くわえて…、という具合だ。私たちや2匹の先輩のそばでは餌を食えないのだ。これまでよほどいじめられてきたのだろうか。

 三毛は安心だけど、あんちゃんとチビは心配だと妻はいう。あんちゃんは車の行き来する国道の向こう側へしょっちゅう出かける。チビは、餌をやる間、大きな円周運動をするが、国道から車がはいってくると轢かれるのでないか。
 心配をよそに平穏な餌やりの日がつづいた。チビも相変わらず演舞のパフォーマンスはするが、だんだん慣れてきて三匹がそれぞれの位置を保ちながら落ち着いて食べている様子だ。餌は妻が通行人のいないのを確かめて緑の茂みの中へ適当に分散する。せいぜい1分たらずだろうが、その間、私は近所の人の気配を厳重警戒せねばならない。いちばん、せつない、つらい緊張の一瞬だ。とくに向かい側の家はゆだんならない。ふだんは人の気配がなくつい無視しがちだが、この間は、いつの間にか二階の窓に灯がついていて、若い女性が見下ろしていた。私たちがノラたちと出会い、餌場を確保し、私がきょろきょろ周りを監視している一部始終をずっと見物されていたのかもしれない。冷や汗が出た。それからは真っ先にこの窓辺を注意することにした。隣家は、ステテコ姿のおじいさんが愛玩用の子犬を抱いてふいに出てくることがあるが、それまでに犬が鳴くし、ドアをあける間があるから、こちらもとりつくろいの余裕がある。

 三匹はそれぞれ個性的で、たのしかった。花盗人前にいくと、鉢の陰から確実に三毛は出てきた。遅れてあんちゃんが大鳴きしながらかけつける。気がつくとチビもきている。茂みの中で並んで食べている三匹が家族のようにみえてきた。この家族には、親はいない。三匹はそろって親や飼い主に捨てられ、この世に保護者はだれもいない。幼いながら自分たちだけで力を合わせて生き抜いていかねばならないのだ。三毛はエプロンがけのしっかり者の長女役だ。弟たちのために働いて食料をまず確保している。あんちゃんは根は善良なのだが、怠け者できまぐれ。働きに出ても長続きせず、ふらふらしている。末っ子のチビはなにかと口うるさい姉ちゃんが苦手で、あんちゃんといるほうが楽しい。付きまとっている。そんな雰囲気だ。
 このときも三毛だけだった。少し待ったが、二匹はやってこない。第2グループを先にまわることにした。






ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 4

 4 餌より人間が好き?「人鳴き猫」10・8

第二の餌場は古家――石垣ーー幼稚園

花盗人の先10メートルほどはいったところに例の野良シンパの古家がある。老夫婦と犬が暮らしており、垣根からよくノラ猫たちが出入りする。ここを通ると、たいてい尻尾や人鳴き猫(人懐っこい鳴き猫の略称)に出くわす。古家の斜め前に小さな二階家があり、一階部分がまるごとコンクリート床でガレージや物置になっている。車が戻ってくるのが遅いのか、たいていシャッターがあがっている。人鳴き猫は私たちの足音を聞くとときどきこのガレージから飛び出してきた。この家の飼い猫かとおもったこともあるが、そうでもないらしい。ガレージをのぞいていると、後ろのほうから「ウエー、ウエー」とけたたましい声をあげて人鳴き猫の登場だ。頭をこすりつけるしぐさはどの猫にも共通する媚のポーズのようだが、人鳴き猫はそれが極端だ。後ろ足を爪立ちして腰を思い切り高く持ち上げ、揺すりながら頭を地面にこすりつける。つい女体を想像してしまう。「いやらしいわね」、と妻は顔をそむけるが、じつに人懐っこい猫で、橋のたもとの木の下で餌をやっていたころ、こいつだけは餌の輪にはいろうとせず、妻の後をずっとついてきた。橋の上で出会った横浜のおばさんが、「てのひらに載せた餌を食べるノラが一匹います。身体も触らせる。飼われていたのが途中で捨てられたのでないかな。猫とりが心配…」といっていたけど、それは人鳴き猫に違いないと妻はいう。

ノラ猫たちは餌をやりにいくと親しそうに走ってくるが、警戒心が強く、一定以上には近づかないし、手ずからの餌をたべることはない。一回りはなれたところで「そこに置いてくれ」というように鳴くだけだ。身体を触ろうとしても素早く逃げられる。一度も成功したためしがない。

「この猫は餌より人間といるのが好きみたい。」と妻はよくいうが、餌場が橋のたもとから古家周辺にかわっても、人鳴き猫にはそのくせが残っている。古家の垣根、溝の中、空き家の玄関の脇、路肩のマンホール、どこに餌をおいてもちょっと鼻先を寄せるだけでこちらについてくることがある。「餌やりの時刻に姿を見せるのだから、餌がほしいんだ。人に見られながら食べるのがいやなんだ。とにかく置いといてやれ。あとでこっそり食べにくるよ」と私は言った。



いま、人鳴き猫は玄関脇に置いた餌に立ち止まっている。気がかわらないうちにそっと私たちは立ち去った。つぎのお客さんは「尻尾」だ。

古家の隣は垣根の前にいつもオートバイをとめている家、その隣は和風の門構え、空き家などこじんまりした家並みが続く。それがとぎれると、石垣に囲まれた高台の空き地、小学校と続く。歩いて5,6分の行程だが、「尻尾」に出会わない。尻尾をみつけるのは一苦労だ。鳴かないうえにほとんど路上に姿をみせない。溝から溝へ隠れて私たちのあとをついてくる。私はこれまで一度も彼の所在を察知したことはなく、いつも妻がみつける。なんだかそんな気がして振り返ると、尻尾の目が溝の中で光っているのだそうだ。食い物を運んできてもらっているのに、無愛想で声もあげず、闇の底をこそこそ動くこの陰気で厚かましい猫が私は嫌いだ。妻も同感だというが、家をでるとき、やっぱり少なめだが餌を準備してくる。「だって、いつもいるんだもの。気になる」

みつからないときはもう一度古