7 魚つり、高山植物探しと思えば

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 7

7 魚つり、高山植物探しとおもえばよいのだが……気苦労なノラの餌やり


 ノラ猫の餌やりでいちばん気を遣うのは、目指す相手にきちんと出会えないことだ。そんなときはしかたないから、いつもの場所に餌を置いておく。人目につきにくい溝とか、電柱の陰とか、空き家の軒下とか。駐車している車の下はノラも安心するらしいが、しかし、万一、ノラが食っていないときはすぐに見つかってしまう。溝はみつかりにくいが、雨など降ると餌が長く汚物のように広がり、台無しだ。近所の人たちによけいな警戒心を起こさせ、新しい口実を与えてしまう。せっかく置いた餌をはたしてノラが発見してぶじに食べたかどうか、餌の残骸が露呈していないかどうか、朝早く確認せねばならない。

とにかく夜のうちにノラ本人を探しあてるのがいちばんだ。自由な山野をバードウオッチしながら散策するのは楽しいが、住宅密集地を人目を忍んでこそこそ行き来するのは神経が疲れるものだ。

私は妻を慰めようと、「ノラ探しを苦にすることはないよ。ほら、魚つりと思えばいいんだ。竿にアタリがきたら楽しいだろう。魚つりも殺生か、それならバードウオッチングとか、そうだ、珍しい高山植物を探していると思えばいいじゃないか」

花盗人にさしかかると、待ちかねていたように三毛が庭先の鉢の陰から姿をあらわした。そのあとを続くように灰色の小柄なチビが庭の奥から飛び出してきた。3日ぶりだ。いつもこいつは餌場に直行しない。まず餌にありつけたうれしさを全身で表現する。庭先の餌場をオーバーランして道の中央へ飛び出し、舞うように大きな輪を描いて走る。その儀式がすんでから餌場に向うのだ。よかった、よかった。ただ、あんちゃんだけが今夜もいない。これで4日連続の欠席だ。どこをさまよっているのかしらん。「いじめられているのでは?」という妻のことばが引っかかっていた。

しかし、その翌日、国道にさしかかったとき、妻が「あ、いる、いる。あんちゃん!」と叫んだ。対岸の花盗人で、道をはみだして私たちのほうへ飛び出そうとしている。例の絞り込むような情熱的な声と身振りをひさしぶりに見た。無鉄砲に飛び出してきては危ない。左右を確認して私たちは走って渡った。鉢の陰から三毛が出てきた。キャ、キャと断片的な独特の鳴き声だ。チビも向かいの家の前をぐるぐる回っている。一瞬、夢のような気がした。懐かしい光景。トリオの復活だ。妻は花盗人の庭先の草むらから昨夜のビニール容器を回収し、新しいのを置き、えさをやっている。少し離れて周りを監視している私。ほどなく妻がひと仕事終えたかのように誇らしげに歩いてくる。微笑みながらVサインだ。

 それから2日ほど新年会が続き、餌やりは妻がひとりでしてくれた。深夜帰宅した私は、報告を聞くのが楽しかった。3匹とも以前のように花盗人で待っていること、妻がいくと、3匹三様の表現で喜びをあらわす、あんちゃんと三毛は並んでがつがつ犬食いをし、チビは相変わらず、えさを口に含むと少し離れた場所へ飛んでいきそこで食べる。そしてまた戻ってくる、などなど。

しっかり者の三毛がずっと家を守り、世間を放浪していた2匹がやっと帰ってきたみたい、と妻が笑った。家族のような3匹を話題に私たちも穏やかで温かい気持ちだった。「3匹はいま幸福だろうね。いつまでもこんな状態が続くといいなあ」と話し合った。


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 8

8 痴呆の母と家族ごっこの日曜日




 朝からどんよりと暗く寒い陰気な日曜日だった。大阪市内で1人暮らしをしている90歳近い母を見舞った。母は早くから家族を捨てて一回り年下の男と同居していた。私たちとほとんど縁が切れていたが、五年前に男が病死したのをきっかけに不本意ながら付き合いが始まった。男の入院手続き、ホスピス移送、葬儀など母はなにもできず、ただ泣き、喚くばかりだった。認知症が始まっていたのである。私が一切を取り仕切った。亡くなった父への義理をたてて、妻には手伝わせなかった。母の係累は私と東京に住む妹だけだ。私には子どもがなく、妹のふたりのこどもも、母とかすかに面識がある程度だ。私も妹も母と一緒に暮らしたのは小学低学年までで、それも戦争中は疎開しており、母の手づくりの世話を受けた記憶は何ひとつ思い出せない。それなのに、認知症で、まだらボケの母はここにきてやたらと「家族団らん」を口にし始めた。へんな家族ごっこがスタートしたのだった。

 商店街のはずれにある、しもたや(仕舞た屋)の四畳半のソファで母はうとうとし、私は按摩器にもたれた。母の居間は窓がなく独特の老人臭が濃霧のようにたちこめていた。いつのまに目が覚めたのか、「生きているの、いやになった。近所で一人ぽっちの老人は私ひとりや」。いつものつぶやきが聞こえてきた。私は帰り支度を始めた。

「もう帰るの? また、ひとりになるなあ。取り残されて、一人で生きるのはさみしいもんやな」。夕闇の垂れた部屋で老女のこの台詞は似合った。同時に自分の両親や夫の晩年を見向きもせず、わがまま一杯で過ごした母の冷酷さを思い出すと怒りもこみあげる。

 「人はだれでもひとりで生まれてひとりで死んでいくんやないか。長生きしたら、だれもみんなおなじ運命や。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんだってそうやった。あんたは知らんやろけど」突き放すようにいって、私はそそくさと母の家をあとにした。母はボケに伴って鬱を周期的に繰り返すようになった。母との日常性や母が私にくれた愛情表現の場面を具体的に思い出そうとしても浮かんでこない。これでいいんだ、妻にそむかれて寂しく死んだ父のためにも、これでいいんだ、と自分に言い聞かせて帰途についた。





ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 8

8 痴呆の母と家族ごっこの日曜日




 朝からどんよりと暗く寒い陰気な日曜日だった。大阪市内で1人暮らしをしている90歳近い母を見舞った。母は早くから家族を捨てて一回り年下の男と同居していた。私たちとほとんど縁が切れていたが、五年前に男が病死したのをきっかけに不本意ながら付き合いが始まった。男の入院手続き、ホスピス移送、葬儀など母はなにもできず、ただ泣き、喚くばかりだった。認知症が始まっていたのである。私が一切を取り仕切った。亡くなった父への義理をたてて、妻には手伝わせなかった。母の係累は私と東京に住む妹だけだ。私には子どもがなく、妹のふたりのこどもも、母とかすかに面識がある程度だ。私も妹も母と一緒に暮らしたのは小学低学年までで、それも戦争中は疎開しており、母の手づくりの世話を受けた記憶は何ひとつ思い出せない。それなのに、認知症で、まだらボケの母はここにきてやたらと「家族団らん」を口にし始めた。へんな家族ごっこがスタートしたのだった。

 商店街のはずれにある、しもたや(仕舞た屋)の四畳半のソファで母はうとうとし、私は按摩器にもたれた。母の居間は窓がなく独特の老人臭が濃霧のようにたちこめていた。いつのまに目が覚めたのか、「生きているの、いやになった。近所で一人ぽっちの老人は私ひとりや」。いつものつぶやきが聞こえてきた。私は帰り支度を始めた。

「もう帰るの? また、ひとりになるなあ。取り残されて、一人で生きるのはさみしいもんやな」。夕闇の垂れた部屋で老女のこの台詞は似合った。同時に自分の両親や夫の晩年を見向きもせず、わがまま一杯で過ごした母の冷酷さを思い出すと怒りもこみあげる。

 「人はだれでもひとりで生まれてひとりで死んでいくんやないか。長生きしたら、だれもみんなおなじ運命や。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんだってそうやった。あんたは知らんやろけど」突き放すようにいって、私はそそくさと母の家をあとにした。母はボケに伴って鬱を周期的に繰り返すようになった。母との日常性や母が私にくれた愛情表現の場面を具体的に思い出そうとしても浮かんでこない。これでいいんだ、妻にそむかれて寂しく死んだ父のためにも、これでいいんだ、と自分に言い聞かせて帰途についた。





ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 8

8 痴呆の母と家族ごっこの日曜日




 朝からどんよりと暗く寒い陰気な日曜日だった。大阪市内で1人暮らしをしている90歳近い母を見舞った。母は早くから家族を捨てて一回り年下の男と同居していた。私たちとほとんど縁が切れていたが、五年前に男が病死したのをきっかけに不本意ながら付き合いが始まった。男の入院手続き、ホスピス移送、葬儀など母はなにもできず、ただ泣き、喚くばかりだった。認知症が始まっていたのである。私が一切を取り仕切った。亡くなった父への義理をたてて、妻には手伝わせなかった。母の係累は私と東京に住む妹だけだ。私には子どもがなく、妹のふたりのこどもも、母とかすかに面識がある程度だ。私も妹も母と一緒に暮らしたのは小学低学年までで、それも戦争中は疎開しており、母の手づくりの世話を受けた記憶は何ひとつ思い出せない。それなのに、認知症で、まだらボケの母はここにきてやたらと「家族団らん」を口にし始めた。へんな家族ごっこがスタートしたのだった。

 商店街のはずれにある、しもたや(仕舞た屋)の四畳半のソファで母はうとうとし、私は按摩器にもたれた。母の居間は窓がなく独特の老人臭が濃霧のようにたちこめていた。いつのまに目が覚めたのか、「生きているの、いやになった。近所で一人ぽっちの老人は私ひとりや」。いつものつぶやきが聞こえてきた。私は帰り支度を始めた。

「もう帰るの? また、ひとりになるなあ。取り残されて、一人で生きるのはさみしいもんやな」。夕闇の垂れた部屋で老女のこの台詞は似合った。同時に自分の両親や夫の晩年を見向きもせず、わがまま一杯で過ごした母の冷酷さを思い出すと怒りもこみあげる。

 「人はだれでもひとりで生まれてひとりで死んでいくんやないか。長生きしたら、だれもみんなおなじ運命や。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんだってそうやった。あんたは知らんやろけど」突き放すようにいって、私はそそくさと母の家をあとにした。母はボケに伴って鬱を周期的に繰り返すようになった。母との日常性や母が私にくれた愛情表現の場面を具体的に思い出そうとしても浮かんでこない。これでいいんだ、妻にそむかれて寂しく死んだ父のためにも、これでいいんだ、と自分に言い聞かせて帰途についた。





ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 9


9 あんちゃん死ぬーーー統計の死と個体の死


阪急電車の駅に降りたのは午後七時半ごろ。小雪がちらついていた。駅から自宅へ10分たらず、途中には花盗人や国道がある。近道をしようと国道の信号の手前を小走りに横切った。あと1メートルで向こう側につくという地点で、目の前に黒いものが転がっている。ヘッドライトに浮かんだのは猫の死骸だ。 

「どこかの飼い猫か、いや、ノラ猫だろう。車にひかれたのだな、かわいそうに」と思いながらも、一方で「人間だって年間何十万人も交通事故で死んでいるのだから」という感じで通り過ぎようとした。ふだん付き合っているノラ猫たちのことはこの瞬間、頭の中になく、それよりふと十年ほど前にも猫の死骸を見たのを思い出した。   

長野県へひとりで登山にいっての帰り道、暗い長いトンネルの中。車の往来が激しくエンジン音の反響が怖かった。早く抜け出ようと狭い歩道を必死で歩いた。車道の端に転がっている黒い小さな物体にヘッドライトがあたり、それは子猫だった。何かのはずみに迷い込んだのだろうか、車から捨てられたのだろうか。さぞ怖かったことだろう。トンネル内を逃げまわったことだろう。一発で死んだのか、あるいは怪我をしたまま横たわって暗黒と騒音と恐怖のなかで死を待ったのかもしれないな。そんな重苦しい気持ちもトンネルを出て緑の山風に吹かれ、うそのように消えてしまったことなどーー。

国道を渡りきり、少し歩き出してから、待てよ、と思った。このへんのノラ猫ならたいてい顔なじみのはずだ。にわかに胸騒ぎがして引き返した。歩道からこわごわと改めて死骸を見直した。街灯とひっきりなしに行き交うヘッドライトのなかで白と茶の縦じまの雉ネコが昼寝でもしているように横たわっている。見知らぬネコであってくれと、祈るような気持ちだ。すぐには見当がつかない。小柄なので、はじめはチビかなと思ったが、チビは灰色だ。雉ネコの知り合いは3匹いる。

一匹は「尻尾」だ。しかし、やつは尻尾が極端に短い。死骸の尻尾は普通にある。残る二匹は、「人鳴き猫」と、「あんちゃん」。2匹とも体毛も鳴き声もそっくりだが、あんちゃんのほうが骨格が大きく、よく肥っているはずで、餌やり現場ではすぐに判別がついた。だが、いま標本のような死骸は小柄でみじめっぽく、堂々たるあんちゃんのイメージでない。やせてはいないが、そんなに肥ってもいない。毎夜、ノラと接して見慣れているように思っていたが、じつはほとんど知らないのに気付いた。出会うのはいつも暗闇の中、それも近所の人にみつからないように、こっそりと素早くえさをやり、素早く立ち去らねばならない。明るいところでまともに顔をあわせたことがないのだった。猫の具体的な風姿でなく、全体的な雰囲気で判別していたのだろう。

人鳴き猫か、あんちゃんか、それとも第三の猫か。状況的にはやっぱりあんちゃんだろう。人鳴き猫は国道の付近に姿を現したことがない。飼い猫だとこんなには毛並みが汚れてはいまい。行動半径が広く、私の餌を求めて橋のたもとから古家、花盗人、国道を越えた豪邸まで飛び回った、あのあんちゃんに違いないと私は結論付けた。頭部に黒い血の跡があり、焼けつくような、ねっとりした声でアピールした口元も血にまみれている。白い髭も血に染まっている。頭の上の路面には20センチ四方ほどの血の塊がふたつできている。あんなに敏捷に駆け回っていたあんちゃんがちっとも動かない。厚かましいくらい堂々と寄ってきて、しつこく餌をねだり、しかし、一定の距離に近づくとノラのプライドを守って「お前なんかに身体を触らせてなるものか」というように素早く逃げたあんちゃん。いまはどんなに近づいても裸身をさらしているのがふしぎに思えた。

あんちゃんとはこの数日、会っていなかった。腹をすかせ、私の餌を求めてむりをして横断したのでないかしら、あと一歩で歩道に届いたのに。あんなに私を慕ってくれ、エサを喜んでくれていたのに、容姿の特徴さえはっきり見分けられないのが、なんだか悪いようにおもった。あっけなく旅立ってしまったあんちゃんよ。もうあの声と身振りで餌をねだることもないんだね。あんちゃんの死に顔を、十数年前の父の死に顔をみたときのように脳裏に刻んだ。